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誘惑に負けないよ [使信]

説教 2024年2月18日  「誘惑に負けないよ」  マタイ4:1-11
 おはようございます。今日は、「受難節」第一主日です。受難節とは、イエス・キリストが十字架について死んで、けれども、復活なさるまでの、七週間弱、四十六日間のことを指します。
 キリスト教会では、この受難節の期間、イエス・キリストの十字架のお苦しみ、そして、十字架にいたるまでのお苦しみの道のり、そのイエス・キリストのお姿を心に思い浮かべながら過ごします。そして、イエス・キリストのお苦しみと十字架の意味、そこにはどのような意味があるのかをかみしめます。
 イエス・キリストは、裏切られ、捕まえられ、ののしられ、裁判を受け、鞭打たれ、十字架につけられました。なんと苦しいことでしょうか。しかし、それは、わたしたちのために、イエス・キリストはそうしてくださったのでした。わたしたち罪人の代わりに、イエス・キリストは十字架で罰を受けてくださった、このことを、十字架に込められたこの意味を、わたしたちは、受難節の期間、深くかみしめようではありませんか。
 さきほど、わたしたちは、ご一緒に使徒信条を唱え、信仰を告白いたしました。この使徒信条には、三本の柱があります。一本目は、「わたしは、天地の創り主、全能の父である神を信じます」です。わたしたちは、この世界をお創りになられた父なる神さまを信じます。これが使徒信条の一本目の柱です。
 二本目は、「わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます」です。わたしたちは、この世界をお創りになられた神さまの独り子、イエス・キリストを信じます。これが使徒信条の二本目の柱です。
 三本目は、「わたしは聖霊を信じます」です。
 わたしは父なる神さまを信じます。わたしは御子イエス・キリストを信じます。わたしは聖霊を信じます。つまり、三位一体の神さまを信じます。これが使徒信条の柱なのです。
 使徒信条は、これに続いて、この三位一体の神さまがわたしたちにしてくださる恵み、救いを述べています。つまり、神さまは、わたしたちを「聖なる公同の教会」に招いてくださいます。「公同の教会」とは「共通の教会」という意味です。世界にはたくさんの教会があり、それぞれ個性や特徴や賜物がありますが、イエス・キリストの教会、という意味では、共通しています。
 「公同の教会」とは、また、すべての信徒の教会、いや、まだ信徒にはなっていない方がたも含めて、すべての人びとの教会、また、天の人びとも含めて、目に見える枠組みを超えた教会、世界の教会全体という意味でもありましょう。神さまは、わたしたちをこの教会に招いてくださいました。
 さらに、神さまは、「聖徒の交わり」に招いてくださいました。聖徒とはめだかの学校の誰が生徒か先生か生徒のことではなく、また、立派な聖人のことでもなく、神さまが招き入れてくださった人びとのことです。
 使徒信条では、つづけて、「罪の赦し、体のよみがえりを信じます」と告白します。イエス・キリストはわたしたちの罪をお赦しくださいます。わたしたちの罪とはどのような罪のことでしょうか。それは、のちほどお話しいたします。
 「体のよみがえり」とは、聖書にはあまり詳しく書かれていませんが、肉体というよりも霊の体のよみがえりのことです。今のわたしたちの肉体の姿とはまったくちがう在り方です。聖書には詳しくは書かれていません。しかし、それは、神さまとつながっている体であり、愛する人びととつながっている体です。「永遠のいのち」、永遠なる神さまとつながった体です。
 このように使徒信条では、三位一体の神さまと、その神さまがわたしたちに与えてくださる救いの出来事を告白しているのです。
 では、使徒信条はどのような役割を果たしているのでしょうか。ひとつは、ここにいるわたしたちの信仰は、ひとそれぞれであり、多様であり、それは、教会のゆたかさでもありますが、どうじに、わたしたちそれぞれの信仰には大きな共通点があります。それが、三位一体の神さまへの信仰であり、公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、体のよみがり、永遠のいのちへの信仰です。
 使徒信条の役割の二番目は、先ほど公同の教会という言葉がありましたが、公同の教会で行われる、今日このような公同の礼拝において、使徒信条は、まだ、公の信仰告白をしていない人びとに三位一体の神さまのこと、そして、その神さまがわたしたちになしてくださる救いを伝えることにあります。
 みっつめに、使徒信条は、もともと、キリスト教が始まったばかりのころ、今から二千年近く前の信仰者たちが、迫害を乗り越えるために告白してきたものだと言われています。信仰者は、迫害を受けながらも、わたしは神さまを信じます、イエス・キリストを信じます、聖霊を信じます、公同の教会を信じます、罪の赦しを信じます、復活を信じます、永遠のいのちを信じます、と信仰を告白しながら、迫害を乗り越えてきたのです。
 キリスト教会の洗礼とは、この使徒信条に基づいて、神さまを信じることを心に深く刻み込まれる礼典のことです。まだ洗礼を受けておられない方がたには、やがて、ぜひ洗礼をお受けになることをお勧めいたします。
 洗礼とは、言い換えれば、わたしたちが神さまの物語のひとりにしていただくこと、神さまの合唱曲の音符のひとつにしていただくことではないでしょうか。
 ところで、今、迫害と申しましたが、わたしたちはどうでしょうか。今、わたしたちは目に見える形で、表立った迫害は受けていないかも知れません。けれども、わたしたちの信仰は、誘惑を受けていないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書4章1節です。4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 イエスさまはこの世で、荒れ野で誘惑を受けられましたが、神さまの霊が導いてくださり、支えてくださり、それを乗り越えられました。
 四十日間とあります。モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒れ野を四十年間さまよったことが思い出されます。
3節です。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
 イエス・キリストは誘惑に負けて石をパンに変えたでしょうか・・・いかがでしょうか・・・今日はあとで「キリストには代えられません」という賛美をいたしますが、キリストは石をパンに変えられませんでした。
 もっとも「かえる」という漢字が違います。キリストは石をパンに変えないという場合は、変化の変という漢字ですが、「キリストには代えられません」という場合は、代表の代という漢字ですね。今日の週報の下書きで、わたしは間違って、「キリストにはかえられません」の「かえる」を変化の変で入力していて、ある方に、その間違いを教えていただいたのでした。ありがとうございます。
 わたしたちは、目に見えない神さまを信頼するのではなく、パンのような目に見えるものにすがろうとしてしまいます。それが誘惑です。適度なパンは必要ですが、過度なパンは要りません。
わたしたちは、石をパンに変えようとする魔法のようなテクニックにすがろうとする誘惑を受けやすいのです。
 けれども、先週の神学生の説教にもあったと思いますが、申命記8章3節にはこうあります。8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 神さま以外のもの、神さまの御言葉以外のものを、わたしたちの、自分の根本の頼みにしてはならないのです。そうして、神さまから離れてしまうこと、それが罪です。
 もちろん、わたしたちには衣食住が必要です。健康も、ある程度のお金も、頼りになる人間関係もある程度は必要です。けれども、それらは、永遠ではなく、なくなってしまうこともあります。ですから、それらを「適度」には求めても、神さまを慕い求めるかのようにそれらを慕い求めてはならない、過度に求めてはならない、目に見えるそれらのもの、神さまではないそれらのものを根本の支えにしてはならないのです。
 お金も衣食住も人間関係も適度であればわたしたちの適度な支えになりますが、わたしたちの根本の支えは神さまであり、神さまの御言葉です。
 たとえば、わたしは苦しい時・・・これでも、けっこう苦しむのです。これでも、しょっちゅう苦しむのです。そういう時、わたしは親しい人に理解しもらいたいと思います。人に話を聞いていただくのは良いと思います。けれども、それが過度になってはならないでしょう。30分や1時間、人に話を聞いていただくことはよいことだし、必要なことでもあると思いますが、何時間も何時間も、24時間、いつでも、誰かに話を聞いてもらいたいということになれば、それは、そのことに依存しているのであり、神さまに信頼することを忘れてしまっているのです。
 わたしたちは人に聞いていただくことで支えられますが、そのこと以上に、神さまを支えとしたい、神さまの御言葉を支えといたしましょう。パンではなく、神さまこそが、神さまの御言葉こそが、わたしたちの根本の支えなのです。たとえ人が話を聞いてくれなくても、神さまの御言葉を支えとする信仰を神さまは与えてくださるのです。
 5節です。4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
 「主を試してはならない」とはどういうことでしょうか。たとえば、今度何かの試験を受けるとします。神さま、今度の試験に合格させてください。これは良いのです。けれども、今度の試験に合格したらあなたを信じますが、そうでなければ、もうあなたを信じません。これはどうでしょうか。神さま、あなたは本当にいるのですか。いるなら試験に合格させてください。合格したら信じます。これはいかがなものでしょうか。
 あるいは、神さまと前もってこのような取引をしていなくても、突然、思いがけなくよくないことが起こったので、神さまはひどいことをする、と言って、信仰をやめてしまうのはいかがなものでしょうか。
 結果にこだわりすぎるのは、石をパンに変えようとすることに似ていないでしょうか。目に見えることがらで神さまと取引をする。ここにも誘惑とわたしたちの罪があります。
 『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』これは、じつは、詩編91編12節からの引用です。そこにはこうあります。91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
 これは、高いところから落下してても、あなたは地面に敷き詰められている石にたたきつけられることはない、というように読めます。
 けれども、聖書を読むときは、前後の文脈も大事です。詩編のこの言葉の少し前にはこうあります。91:2 主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
 つまり、この詩編が全体で言おうとしていることは、具体的なことではなく、神さまはわたしたちを守ってくださる方であり、わたしたちがより頼むことをおゆるしくださるお方であるということなのです。あなたの足が石に打ち当たらない・・・というのは、具体的な出来事というよりは、神さまがいかにわたしたちをお守りくださるかということのたとえなのです。それは、具体的なことというよりは、神さまは何があろうとわたしたちの人生全般をお守りくださるということなのです。
 聖書の言葉を文脈を無視して読んでしまう、そのような誘惑はわたしたちをも待っています。けれども、そのような聖書の読み方は、今日の悪魔のような聖書の読み方は、わたしたちの身に起こる出来事によって、目に見える結果によって、神さまへの信仰が左右されてしまうことになりかねません。
 わたしたちは、たしかに、良い結果を求めて祈ります。けれども、自分にとって良い結果が出ようと、あるいは、今は良い結果が出ているように思えなくても、それでも、神さまがともにいてくださり、人生を導いてくださることを信じぬこうではありませんか。私はそうしてきました。良い結果が出るのは神さまのおかげです。心から感謝しています。けれども、良い結果が出るように思えないときでも、神さまはわたしを支え続けてくださる、だからこそ、神さまを信頼します。
 望んだ結果が出なくて、良い結果が見えなくて、長いトンネルを歩いているように苦しんでいる方もおられると思いますが、今はそう見えても、神さまは今もともにいてくださり、今も導いていてくださいます。わたしはそう信じます。
 その意味では「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」という御言葉はその通りだと思います。
 イエスさまはこう言われました。「一羽のすずめが落ちる時、天の父がかならず一緒にいてくださる」。これはこのように落ちていくものの真下にいて、いっしょに落ちてくださり、最後は地面にたたきつけられないようにクッションのように受け止めてくださる、こういうイメージだと言われています。
 8節です。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
 わたしたちは、世界制覇、世界征服などは考えていないかもしれません。けれども、たとえば、誰かとふたりでいて、意見が違うとき、自分の意見を通そう、自分の意見に従わせようとしていないでしょうか。
 私など、妻には、いつも、自分の考えを押し付けようとしてしまっています。すみません。信徒の方がたにも自分の考えを受け入れてもらおうとしてしまっています。神さまにお委ねしていないのですね。
 自分の問題も、自分の考えや知識や行動や計画で解決しようとしてしまい、神さまに委ねることを忘れてしまっています。ここに、わたしの罪があります。周りの人、自分が生きる世界を、自分で支配しよう、自分で仕切ろうとしてしまっています。その誘惑に負けてしまっています。
 しかし、イエスさまは言われました。「ただ主に仕えよ」。わたしたちは、自分の力ではなく、主にお仕えいたしましょう。わたしたちは、神さまのお導きを信頼いたしましょう。
 11節です。4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 「悪魔は離れ去った」とあります。イエス・キリストが、聖霊のお力によって、悪魔と悪魔の誘惑を斥けてくださったのです。それは、わたしたちも、目に見えるものや自分の力を根本の支えにしようとする誘惑に、わたしたちも打ち克たせてくださるためです。
 わたしたちは、このイエス・キリストを信じ、聖霊を信じましょう。使徒信条にあるように、父なる神さまと御子イエス・キリストと聖霊の神さまに委ね切りましょう。
 父なる神さまと御子イエス・キリストと、今日、イエス・キリストとともに悪魔を斥けてくださった聖霊の三位一体の神さまをこそ、わたしたちの最大の支えといたしましょう。
 そして、今日、公同の教会、公同の礼拝、聖徒の交わりに招かれていることを信じ、わたしたちの深い罪、その深さにもかかわらず、キリストの十字架によって赦されていることを、そして、体のよみがえり、神さまとつながった永遠のいのちを信じぬこうではありませんか。
 今日からあらたな気持ちで、もう一度、三位一体の神さまを信じ始め、信じぬこうではありませんか。洗礼を受けてこの信仰の道に入りましょう。この信仰の道はけっして楽ばかりではありませんが、イエス・キリストは誘惑と罪に打ち克ってくださいました。聖霊がわたしたちを導いてくださいます。
 神さまと神さまのお言葉をこそ、人生の最大の支えとするこの道を今日から歩き始めましょう。ともに歩きましょう。
 お祈りをいたします。神さま、わたしたちには、衣食住やお金、人間関係など、適度な支えをいただいていますが、わたしたちは、あたかもそれが神さまであるかのようにそれにすがってしまい、神さま、あなたご自身と、あなたの御言葉を慕い求めることを忘れてしまいます。けれども、イエス・キリストは荒れ野において、聖霊とともにその誘惑を斥けてくださいました。神さま、あなたと御言葉を根本の支えとする道を今日、この日曜日から、あらたに歩ませてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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