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床を担いで歩く [使信]

使信 2024年2月4日  「床を担いで歩く」  ヨハネ5:1-18
 おはようございます。キリスト教の洗礼を受けるということはどういうことでしょうか。わたしは、洗礼にはふたつの側面があると思います、ひとつは、神さまの方からわたしたちにしてくださる側面です。それは、神さまがわたしたちに愛を注いでくださる、神さまのいのちの息、聖霊を注いでくださる、わたしたちを新しくしてくださる、神さまがわたしたちを受け入れてくださるということです。
 洗礼のもうひとつの側面は、わたしたちが人間としてなす側面です。それは、イエスに従って生きるという決意表明のようなものです。イエスに従って生きるとは、具体的には、神さまを信頼して神さまに委ねたイエスのように、わたしたちが生きるということでしょう。イエスに従って生きるとは、また、神さまの愛、神さまの御心に従ったイエスのように、わたしたちも愛に生きるということでしょう。
 神さまの愛、神さまの御心に従って生きる、ということは、この世の価値観とは違うように生きるということでしょう。人や自分やものごとを優劣、優か劣かで判断したり、正しいか正しくないかで判断し、自分を正しい側に置こうとしたり、「自分は自分は」とどこまでも自分中心であったりする・・・そのような価値観とは違う、神さまの愛の御心、人を分け隔てしない、自分中心にならない、人を大事にする生き方をすることでしょう。
 洗礼を受ける、ということには、わたしは、このような意味を考えます。では、今日の聖書に出てくる「床を担いで歩く」とはどのようなことを意味するのでしょうか。
 いつでもどこでも横になれるように、床を担いで歩く、ということでしょうか。わたしは学生時代、四畳半の和室に下宿していて、そこは、万年床と言って、布団を敷きっぱなしにしていました。和室というのは、本来は、朝起きると布団をたたんで、押し入れにいれるものなのですが、最近は和室でも、ベッドを置いていることも多いようですね。ベッドというのも、押し入れを開けて布団を引っ張り出して敷かなくても、いつでも横になれますから、万年床みたいなものですね。
 床を担いで歩くとは、あるいは、自分の人生のこれまでのすべてを担いで、担って生きることでしょうか。今日の聖書のお話で言えば、病気で苦しんだ38年の人生、あるいは、それ以上の人生を担って、背負って生きるということでしょうか。
 わたしは現在63歳ですが、ふりかえれば、中学1年生だった13歳から63歳までの50年間は、今振り返る立場に立てば、あっという間でした。そして、50年間のいろいろなことを覚えています。もっとも最近のことは良く忘れます。人の名前などどんどん忘れます。一度見た映画や一度読んだ本の内容もどんどん忘れます。
けれども、たとえば、中学校の卓球部のこととか、友達と悪いことをしたこととか、高校入試のこととか、高校時代のバドミントン部のこととか、大学入試当日のこととか・・・受験会場に行ったら、時間を間違えて、3時間も早く着いてしまったので、パチンコをして時間をつぶしたこととか、仕事をし始めてからのいくつもの場面とか、結婚することになりうれしかったとか、家族とか、仕事上で起こった大きな苦しみの数々とか、そういうものは覚えています。そういうものを何十年分も背中に背負って生きているのかもしれません。
 床を担いで歩くとは、あるいは、律法よりもイエス・キリストの言葉に従って歩く、世の中の規則や常識よりも、イエス・キリストの愛の言葉、イエス・キリストの励まし、イエス・キリストの促しによって生きるということでしょうか。それが床を担いで歩く、ということのようにも思えます。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書5章2節です。5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
 「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」とあります。これらの人びとは、イエス・キリストがここだけでなく、ガリラヤやユダヤの各地で出会った人々でもあります。イエス・キリストは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人を訪ね、友となられました。
 この人々が「横たわっていた」とあります。起き上がれなかったのではないでしょうか。この人々は起き上がれないでいたのではないでしょうか。けれども、あとで、8節に出てきますが、イエス・キリストはこの横わたって起き上がれなかった人びとに「起き上がりなさい」と声をかけたのです。
 「起き上がりなさい」。これは、強制の命令ではなく、招きでありましょう。イエス・キリストは、「起き上がれ」と言って、その人びとを見張ったり蹴っ飛ばしたりしたのではなく、イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言って、この人びとの手を握りしめたのでありましょう。
 5節です。5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
「38年も」とあります。「もう長い間」病気で苦しんできた、とあります。これは、人生そのものの苦しみのことでありましょう。むろん、人生は苦しみだけではありません。人生にはゆたかな喜びもあります。けれども、人生には、苦しみという通奏低音があります。
 「人生には、苦しみという通奏低音があります」・・・かっこいいですね。しかし、むろん、人生には、「喜び」という通奏低音もあります。キリスト教信仰とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。福音とは、喜びという人生の通奏低音のことなのかもしれません。
 7節です。5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 助けてくれる人がいない。他の人が我先に行ってしまう。これは、この世界の常識的な価値観ではないでしょうか。人を助けない。人を押しのけてでも自分の道を行く。競争、自分中心、他の人への無関心。これが、この世界を支配している価値観ではないでしょうか。
 8節です。5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
 イエス・キリストは「起き上がりなさい」と言われました。これはどういうことでしょうか。わたしは、今年から、あるキリスト教雑誌で、一年に三回、その月の号の特集を企画する仕事をいただきました。
 その最初は3月末に発行される4月号で、わたしがその号で企画した特集は「復活」ということです。聖書で物語られている復活は、わたしたちの世界や社会での生活にどのようなメッセージを持っているかということを考える特集です。
 そこでは、復活は、死後の復活だけでなく、死ぬまでの人生における何度かの再起、起き上がりのこととしても語られます。聖書の語るイエス・キリストの復活は、わたしたちの人生における再起、七転び八起きにもつながっているということです。
 わたしも63年と3か月の人生、何度か倒れましたが、その都度、起き上がってきました。神さまに、イエス・キリストに、起き上がらせていただきました。これまではなんとか起き上がってきたが、もうだめだ、もうこれは起き上がれない、死ぬとはこういうことなんだな、と思うような倒れ方もしましたが、それでも、起き上がらされました。
 イエス・キリストが起き上がらせてくださるのです。イエス・キリストの「起き上がりなさい」という言葉が起き上がらせてくださるのです。自分で何とか起き上がったつもりでも、イエス・キリストのお言葉、イエス・キリストの人格、イエス・キリストの出来事、イエス・キリストの力、イエス・キリストご自身が起き上がらせてくださるのです。
 「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」とあります。聖書の物語では「すぐに」とありますが、わたしたちの人生では「すぐに」というわけにはいきません。けれども、ゆっくりであっても、わからないくらい遅い歩みであっても、神さまは、イエス・キリストは、たしかに、たしかに、わたしたちを起き上がらせてくださいます。
 10節です。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
 イエス・キリストに38年の病を癒していただいたこの人は、ここで分岐点に立たされています。律法に従って、安息日に床を担ぐことを止めるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従って、安息日でも床を担いで歩くのか、という分岐点です。
 律法に縛られるのか、それとも、イエス・キリストによって律法の束縛から解き放たれるのか、どちらを選ぶのか、という分岐点です。
 あなたはナニナニしなくてはならない、という律法に縛られるのか、それとも、あなたはナニナニできる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、人を愛さなければならない、この人を助けなければならない、この人に仕えなければならない、という律法に縛られるのか、それとも、わたしたちは、人を愛することができる、この人を助けることができる、この人に仕えることができる、という福音に生かされるのか、です。
 わたしたちは、律法や規則で縛られ、優劣のような人間的な尺度に縛られ続けるのか、それとも、イエス・キリストの言葉に従う、いや、イエス・キリストの「床を担いで歩きなさい」という言葉によって解放され、優劣の尺度ではなく愛と慈しみに生きようとするのか、どちらでしょうか。
 38年の病気を癒された人にとって、律法の安息日の規則に違反してまで、床を担いで歩く、とは、今日からは律法やこの世の価値観ではなく、福音、イエス・キリストの愛の御心に従って生きていきます、ということを意味していたのではないでしょうか。
 13節です。5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
 38年間病気だったこの人は、以前はイエス・キリストが誰であるのか知らなかったのですが、いまや、自分を癒してくれたのは、自分を起き上がらせてくれたのは、イエス・キリストだと知っているのです。
 16節です。5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
 ユダヤ人がイエス・キリストを殺そうとしたとありますが、イエス・キリストを十字架の死に追いやったのは、わたしたち人間の罪、自己中心、エゴイズム、他者を押さえつける生き方に外なりません。ユダヤ人がイエスを殺そうとした、という言葉には、わたしたちのことが含まれていると思います。
 人びとがイエス・キリストを迫害した理由は、安息日の律法の規定を犯したからだとあります。世の中の決め事、世の中の常識に背くとされることをしたゆえに、イエス・キリストは十字架に追いやられました。
 また、神さまを父と呼んだこと、ご自分を神さまと等しい者としたことも、その理由だと言います。神さまを父と呼ぶ、神さまと一体であると言われる。これは、イエス・キリストにとって、神さまとの親しさ、神さまとの親密なつながりを意味しているのではないでしょうか。イエス・キリストは、神さまの愛、神さまの慈しみ、神さまのお力を、誰よりも強く感じておられた、知っておられたのです。
 けれども、これらのことは、世の人びと、つまり、わたしたちの価値観からすれば、神さまへの冒涜に映ったのです。そして、わたしたちは、イエス・キリストを十字架に追いやりました。
 二週後から受難節が始まります。イエス・キリストの十字架を前にした40日間が始まります。イエス・キリストが十字架につけられた理由は、イエス・キリストが、律法、世の価値観ではなく神さまの愛、神さまの御心に従ったことにあります。それほどまでに、神さまと親密になられた。それゆえに、イエス・キリストは十字架につけられたのです。
 わたしたちは、このイエス・キリストに従うのです。わたしたちも、この世の価値観、優劣、自己中心、そして、ナニナニしなければならないという規則万能の価値観ではなく、神さまの愛、神さまの愛の御心に従って行けるように祈り求めようではありませんか。
 また、わたしたちも、イエス・キリストとともに、神さまを父と呼ぶほどの親密感と信頼を持てるように祈り求めようではありませんか。
 そうやって、わたしたちは、律法に背いてでも、わたしたちの床を担いで、律法ではなくイエス・キリストに従えるように祈り求めようではありませんか。
 祈り。神さま、わたしたちは倒れてしまっています。起き上がれないでいます。けれども、イエス・キリストは、起き上がりなさい、とわたしたちの手をつかんで、引き寄せてくださいます。心より感謝いたします。神さま、わたしたちも、起き上がり、世の価値観ではなく、あなたの愛の御心に従うことができますように、わたしたちを整えてください。神さま、わたしたちもあなたを父と呼ぶ親密感、信頼感をお与えください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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自由をもたらす真理とは [使信]

使信 2024年1月28日  「自由をもたらす真理とは」  ヨハネ8:21-36
 おはようございます。今日の聖書にあります「真理はあなたたちを自由にする」とは、どういう意味なのでしょうか。真理とはいったい何なのでしょうか。自由とはいったいどういうことなのでしょうか。
 国会図書館のどこかに、「真理がわれらを自由にする」と記されている、と聞いたことがあります。また、羽仁もと子さんが創立し、大貫隆さんが最高学部長を務めた自由学園の「自由」という言葉も、今日の聖書の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉から来ているそうです。
 そうすると、「真理はあなたたちを自由にする」の「真理」とは、本を読んだり学校で学んだりして得られる知識や論理や思考のことでしょうか。
 真理とは、数学の難しい問題の解き方や、これはこれに決まっているとされ唯一だとされ客観的だとされる答えのことでしょうか。
 わたしたちは本をたくさん読んだり学校でよく勉強したりすれば、そのような真理を手にすることができ、自由になれるのでしょうか。
 そうすると、自由とは、何でも自分で考え、判断し、すべてひとりでやってしまうことでしょうか。そうではないと思います。
 結論から言えば、真理とは、じつは、神さまのことであり、神さまの愛のことであり、神さまの愛の表れであるイエス・キリストのことなのです。そして、自由とは、わたしたちが「わたしは正しい」という狭い枠、「わたしは知っている、わたしはできる」という狭い檻の中に閉じ込められることなく、むしろ、その扉が開かれること、つまり、神さまと隣人に向けて、わたしたちの扉が開かれること、それが、自由なのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書8章21節です。8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
 「自分の罪のうちに死ぬ」とあります。これは、自由であることの正反対でありましょう。罪のうちに死ぬ、という言葉は、「罪のうちにあること」と「死んでいること」は同じことを意味しているのではないでしょうか。
 自分の罪のうちにあるとは、自分だけの狭い枠の中にとどまっていることではないでしょうか。自分は正しいという思いにとらわれて、そこから出ることのできない状態です。そのとき、わたしたちは、神さまとも隣人ともつながっていません。自分の中に閉じこもってしまっているのですから。わたしたちの罪とは、神さまや隣人に心を向けず、自分だけの世界にとどまってしまい、神さまや隣人から切り離されてしまった状態のことでありましょう。
 そして、死も、また、神さまや隣人から切り離されてしまった状態です。わたしたちの肉体が地上の旅を終えても、わたしたちが神さまとつながっていれば、それゆえに隣人ともつながっていれば、わたしたちは生きているのです。はんたいに、わたしたちの肉体がまだこの地上にあっても、わたしたちが神さまから離れてしまっていたら、それゆえに隣人からも離れてしまっていたら、それは死んでいるのです。
 「わたしたちが罪のうちに死ぬ」とは、そのようにわたしたちが自分という牢獄に入ってしまって、神さまとも隣人ともつながっていない状態のことでありましょう。
 いのちとは、じつは、つながりのことなのです。さいきん、「農はいのちをつなぐ」という本を読みました。岩波ジュニア新書です。自分があまり知らない分野のことを学び始める時は、新書がいちばんですね。とくに、岩波ジュニア新書とかちくまプリマ―新書がよいですね。中高生向けに書かれた本でも、それがていねいに作られたものであれば、あたらしいことを学び始める大人にもとても役に立ちます。
 わたしは、農村伝道神学校の非常勤講師をしていますが、農のことはまるで知りません。また、広島の山間部の農村に移住した友人の牧師たちと「農の神学」というものを考えようとしていますが、農のことはほとんどわかっていないのです。わたしの父親は鹿児島高等農林学校の出であり、わたしは農学部中退なのですが、農のことは何も知りません。
 そこで、手始めにこの「農はいのちをつなぐ」という本を読んでみました。すると、そこには、「いのち」は「生きもの」のつながりであり、わたしたちは「食べもの」を通して「いのち」とつながる、とありました。また、「農の原理」とは、生きとし生けるものの「いのち」を引きつぎ、次につなげることです、ともありました。
 たとえば、田んぼには稲だけでなく、雑草と呼ばれるいろいろな植物も育ち、害虫と呼ばれるものも含むいろいろな動物、かえるやげんごろうやとんぼも生息しています。そして、稲からとれる米は食卓でわたしたちといういのちとつながります。このように、いのちはつながり、ネットワークなのです。聖書も、また、神さまと人間と人間以外の存在のつながりを伝えています。
 「自分の罪のうちに死ぬ」とは、自分の小さな枠の中にとどまり、神さまを中心にしたいのちのネットワークにつながらないことではないでしょうか。これは自由の反対なのです。
 聖書の言葉に戻りますと、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」とありました。これも同じことで、イエス・キリストの行く所とは、神さまのところであり、そこにあなたたちは来ることができない、とは、神さまとつながることができない、ということでありましょう。
 23節です。8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
 イエス・キリストが上のものに属している、とは、イエス・キリストは神さまに属しておられる、イエス・キリストは神さまとの深いつながりの中におられるということでしょう。
 24節です。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
 「「わたしはある」ということを信じないならば」とあります。「わたしはある」とは不思議な言葉ですが、これは、じつは、神さまのことです。
 旧約聖書の出エジプト記にこういうことが書かれています。3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
 神さまは「わたしはある」というお名前、あるいは「わたしはある、わたしはある」というお名前だと言うのです。このお名前にはどのような意味があるのでしょうか。
 「わたしはある」「わたしは存在する」「わたしは根本的に存在する」「わたしは根本的な存在だ」「わたしは存在するものを存在させる創造者だ」というような意味があるとも考えられます。
 あるいは、「わたしはある、わたしはたしかにここにいる」「わたしはいる、わたしはたしかにここにいる、あなたと一緒にここにいる」というような意味があるとも考えられます。
 ところで、ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは、「わたしは世の光である」と言っています。あるいは、「わたしは良い羊飼いである」「わたしはぶどうの木である」「わたしは道であり、真理である」と言っています。
 これらの文の中の「世の光」「良い羊飼い」「ぶどうの木」「道」「真理」という言葉をカッコの中に入れてしまうと、これらは皆、「わたしはある」という文になります。つまり、イエス・キリストご自身がご自分のことを、「わたしはある」と語って来られたのです。
 つまり、「「わたしはある」ということを信じないならば」とは、神さまのことを信じないならば、ということでもあり、同時に、イエス・キリストを信じないならば、ということでもあるように思われるのです。
 あるいは、神さまにつながっていなければ、イエス・キリストにつながっていなければ、ということでもあるように思われるのです。そして、それは「自分の罪のうちに死ぬこと」であり、自由ではない、ということでもあるように思われるのです。
 25節です。8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
 イエス・キリストはいったい誰なのか。これは、じつは、今日の聖書の箇所の主題であり、さらには、ヨハネによる福音書の主題であり、さらには、新約聖書の主題であり、さらには、旧約聖書を含む聖書全体の主題でもあります。そして、キリスト教会は、聖書の御言葉から、イエス・キリストはまことの人でありまことの神であるという信仰告白をいにしえからしてきたのです。
 26節です。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
 「わたしをお遣わしになった方は真実である」とあります。この真実とは、誠実のことであり、愛のことであり、御父、天の神さま、創造主なる神さまのことであり、さらには、「真理はあなたたちを自由にする」という言葉にある「真理」のことでありましょう。
 28節です。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
 「人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということがわかる」とは、イエスさまが十字架につけられたとき初めてイエスさまがキリストである、神の子であることがわかる、ということでありましょう。
 また、イエス・キリストが父なる神さまに教えられたとおりに話しているとは、イエス・キリストが神さまの御心、神さまの愛を表しておられるということでありましょう。
 ここには、神さまとイエス・キリストとの深い一致、神さまとイエス・キリストが一体であることが語られていて、いにしえの教会はこれを三位一体という言葉で言い表したのです。
 29節です。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。
 これは、神さまはイエス・キリストと共におられる、神さまはイエス・キリストをひとりにしてはおかれない、イエス・キリストは神さまのお心を行う、ということでしょう。
 そして、これは、じつは、わたしたちにもあてはまることであり、神さまはわたしたちとともにおられ、神さまはわたしたちをひとりにしてはおかれず、わたしたちは神さまのお心を行えるように祈り求めるのです。
 神さまのお心、神さまの御心とは、愛のことでしょう。自分だけでなく、人を大事にする愛のことでしょう。
 31節です。8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」という言葉と、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、同じ事柄を言い換えているように思われます。
 つまり、「わたしの言葉にとどまる」「イエス・キリストの言葉の中にいる」ということは「真理を知る」ということであり、「わたしの弟子である」「イエス・キリストの弟子になる」ということは「自由にされる」ということではないでしょうか。
 自由になるとは、イエス・キリストの弟子になることなのです。誰かの弟子などにならない方が自由であるような気がするかもしれませんが、そうではありません。
 イエス・キリストの弟子になるということは、自分自身の枠にとどまらないということです。エゴイズムの枠、罪の枠に閉じ込められないということです。イエス・キリストの弟子になるとは、神さまに対して自分が開かれる、隣人に対して自分が開かれるということなのです。
 神さまご自身が自由なお方です。神さまの自由は自由奔放ではなく、むしろ、人に仕える自由です。神さまの自由とは自由奔放ではなく、愛なのです。
 わたしたちの心はいつも神さまからも隣人からも離れてしまっています。では、神さまの心もわたしたちから離れてしまうかと言いますと、そうではありません。神さまは、わたしたちの心が神さまに向いているか向いていないか、わたしたちが罪人であるか善人であるか、そういうことから自由なのです。神さまは、わたしたちが罪人、神さまから離れた者であるにもかかわらず、そのようなことに束縛されず、自由に、わたしたちを愛してくださるのです。それが神さまの自由です。
 神さまの愛は無条件の愛です。神さまの自由とはこの無条件のことなのです。神さまの自由とはわたしたちに対して開かれているということなのです。
 わたしたちも自分自分という思いの奴隷にならず、神さまにお委ねして、隣人の思い、隣人の心に開かれる自由を得たいと思います。
 「真理はあなたたちを自由にする」とは、神さまがわたしたちを自由にしてくださる、神さまと隣人に対して心を閉ざしたわたしたちを、神さまが開いてくださる、ということなのです。
わたしたちは、神さまによって、神さまと隣人に向けて心を開かれ、神さまと隣人を愛する自由を与えられているのです。このことにあらためて気づき、感謝をいたしましょう。
 祈り。神さま、わたしたちは自分という牢獄にとらわれています。自分の思いという枠に閉じこもっています。わたしたちは不自由なのです。けれども、神さま、あなたは、真理であられ、わたしたちをそこから自由にしてくださいます。閉ざされたわたしたちの心を、あなたと隣人に向けて開いてくださいます。神さま、わたしたちはあなたからいただいたこの自由を大切に用いることができますようにお導きください。神さま、閉じ込められて苦しんでいる友の扉を外から開いてください。わたしたちもそこに伴わせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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特上のワインはラストに [使信]

説教 2024年1月21日 ヨハネ2:1-11 「特上のワインはラストに」

 おはようございます。
 教会は家族なんですね。教会はそこで50年も60年も過ごす家族なのです。二十歳前後でイエスさまに出会い、イエスさまの家族になり、姉妹兄弟と家族になるのです。
 もちろん、二十歳前後から五十年間も教会の家族である人もいれば、もっと前から、生まれた時から教会の家族である人もいます。あるいは、人生の後半になってから教会の家族になった人もいます。
 けれども、皆が教会の家族なのです。一日の夜明けからぶどう園で働く人、もうすこし経って9時になってぶどう園に来た人、正午になってきた人、午後3時に来た人、午後5時に来た人がいますが、夕暮れには皆が1デナリをいただいたように、皆が同じ食卓で同じ食事をいただくように、一日の何時にイエスさまに出会い、何時に教会の家族になっても、教会は家族なのです。わたしたちは、神さまの家族、イエスさまの家族なのです。
 今、ぶどう園の話を少しいたしました。今日の聖書には、ぶどう酒が出てきます。わたしはぶどう酒、ワインをほとんど飲んだことがありません。性格がまじめだからでもなければ、信仰の理由で飲まないわけでもありません。
 アルコールを分解する酵素がわたしには少ない、言い換えれば、お酒に弱い、すぐに頭が痛くなってしまい、気分も悪くなる、まあ、それだけの理由です。
 むかしは、聖餐式もワインでやっている教会がよくあって、そういうときは、聖餐式のあとは、賛美歌が上手になっていたような気がします。しかし、最近は、いろいろな配慮によって、ぶどうジュースの教会が多いと思います。
 ワインには、赤と白とロゼというのがあるそうですね。お酒を飲まなくても、それくらいのことは知っています。神学生のころ、ある教会の聖餐式で、牧師さんが、今日は良い白ワインがあるので、それで聖餐式をしよう、とおっしゃって、びっくりしたこともありますが、聖餐式のワインは赤でなくてもよいのかどうか、いまだにわかりません。
 お酒を飲めないわたしでも、ワインには、ボジョレーヌーボというものがあることは知っています。これは、その年にできたばかりのワインのことのようですね。それに対して、何年も蔵で寝かしてきた年代物のワインもあり、それは、ヴィンテージと呼ぶのでしょうか。今日の聖書で、あとの方で出てくるぶどう酒はヴィンテージの味がしたのかもしれませんね。直前まで水でぶどう酒になったばかりだったのですからボジョレーヌーボのような気もしますが、その味わいはヴィンテージのように上等だったのではないでしょうか。
 飲めないお酒の話はこれくらいにしまして、皆さんは、苦しみが喜びに変わった、神さまが苦しみを喜びに変えてくださった、という経験がおありでしょうか。
 病で苦しんでいたが、それが癒された、祈りに支えられた、神さまに癒していただいて、回復した、そのように、苦しみを喜びに変えていただいたという方は何人かおられるのではないでしょうか。
 四年前、わたしは東京都大田区から川崎市麻生区に引っ越しました。麻生元総理大臣の麻生と書いて、あさおと読むのです。知らないところに引っ越すこと、しかも、東京から電車で何十分もかかり、さらには、バスに20分も乗らなければならない陸の孤島のようなところに引っ越すのは苦痛でした。
 深沢教会もバス停は近くにありますが、電車の駅からはかなり遠いので、陸の孤島的なところがありますが、今日も礼拝にお越しくださり、ほんとうにありがとうございます。うれしいです。
 話を戻しますと、わたしは陸の孤島に引っ越して、苦しかったのですが、それが、じょじょに喜びに変わっていきました。
 まずは、わたしと家族が川崎市に引っ越したその年、Jリーグの川崎フロンターレが優勝しました。うれしいですね。ああ、川崎市民になって良かったと思いました。
 それから、それまでまったく知らなかったところに引っ越したわけですが、ああ、日本にもこんなパンダが出そうな竹藪だらけのところがあるのか、と、日本の新しい風景も味わうことができるようになりました。
 遠いということは、自然が豊かであるということで、散歩ができる、ということです。駒沢公園も大きな木がたくさん生えていますが、まあ、自然というよりは管理された公園ですよね。ところが、川崎市麻生区あたりは、ときには狸も出る自然が生活圏、散歩の範囲の中にあるのです。これもわたしの喜びになりました。
 さらには、川崎市麻生区に引っ越して二年が過ぎた時、東京都世田谷区の教会から代務者としてお招きいただき、また、こうやって皆さんとご一緒できるようになりました。さらには、去年からは、主任牧師として招聘していただき、今、喜びの年を過ごさせていただいております。
 川崎市麻生区のまぶね教会だけでなく、この深沢教会、深沢の群れにも入れていただき、ともに歩ませていただいていることは、ほんとうに大きな喜びです。
 また、川崎に引っ越して一年後に、町田の農村伝道神学校で講師の仕事をいただいて、神学教育に関わることができるようになったことも大きな喜びです。さらには、もっとうれしいことに、深沢教会では、ふたりの神学生とご一緒させていただいております。こんなにうれしいこと、こんな喜びはありません。
 今、まぶね教会と深沢教会の礼拝、聖書の学び、そして、信仰の交わりは、ほんとうに大きな喜びです。
 四年前の引っ越しの苦しみを、神さまは、今の喜びに変えてくださいました。主に心から感謝いたします。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書を三つのポイントから振り返ってみたいと思います。
 1 イエス・キリストは喜びの時も悲しみの時もわたしたちとともにいらしてくださいます。
 2 人生は後の方が味わい深くなります。
 3 神さまは、今の苦しみを、やがて、喜びに変えてくださいます。
 では、ヨハネによる福音書2章1節です。
 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
 婚礼は喜びの時です。しかし、そこでぶどう酒がなくなってしまうのは、ある意味、喜びの時が苦しみの時になってしまった、ということです。しかし、イエス・キリストは、ぶどう酒のゆたかな婚礼の喜びの時も、ぶどう酒がなくなってしまった苦しみの時も、カナのその場の人びととともにおられました。
 それと同じように、イエス・キリストはわたしたちの人生の喜びの時も、悲しみの時も、わたしたちとともにいてくださるのです。皆さんも、これまでの人生、そうだったのではないでしょうか。
 ピンとこない方も、きっと、そう感じる時が来ると思います。ああ、神さまは、イエス・キリストは、わたしがうれしいときも、わたしが悲しいときも、いっしょにいてくださるのだなあ、としみじみする時を神さまがきっともたらしてくださいます。
 8節です。
 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです」とあります。わたしはお酒は飲まないのでわかりませんが、世の中ってそんなものなのですか。
 けれども、イエス・キリストは違います。イエス・キリストは、良いぶどう酒を今までとっておいてくださるのです。
 わたしは今、おそらく、人生の晩年の入り口あたりにいるような気がしますが、先ほども申し上げましたように、とても幸せなときを過ごしています。
 ふたつの教会の牧会。そこにおられる心やさしき人びとに恵まれています。30年前なら、ボジョレーヌーボのころなら、ふたつの教会を牧会する恵みを味わうことはできなかったでしょう。
 神学校で神学教育に関わることも、ふたりの神学生とともに歩む喜びも、イエス・キリストがいままでとっておいてくださった良いぶどう酒、喜びにほかなりません。
 鳥瞰図という言葉があります。鳥瞰図の「ちょう」は鳥と書きます。鳥の高さから見た地表ということです。その方が、広い範囲を見渡すことができます。年をとると、ある一点だけでなく、平面、場合によっては、立体で、ものを味わうことが許されます。
 たとえば、神学生に神学校のレポートについて相談を受けたとします。どの神学生とは言いません。たとえばのお話です。35年前、わたしは、神学校の先生がその課題を出した意味はあまりわかっていなかったかもしれませんが、今のわたしは、ああ、こういう主旨の課題だなと見当がつきます。これも、今までとっていていただいた良いぶどう酒でありましょう。
 深沢教会では、おそらく、わたしより年長の方がたも、賛美リーダーやアシスト、司会の奉仕をしておられます。これらの方がたも、ビンテージと言いますか、味わい深いですね。
 老いや病の苦しみもあります。しかし、見方を変えれば、それも、人生の味わいのひとつなのかもしれません。今この年になって、これまでの人生を経て、今味わえる良いぶどう酒があります。
 イエス・キリストは、婚礼でぶどう酒がなくなってしまう悲しみ、苦しみを、最良のぶどう酒、最良の喜びに変えてくださいました。今そうしてくださいます。これからもそうしてくださいます。
 エレミヤ書にはこうあります。
 エレミヤ31:13 そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。
 神さまはわたしたちの嘆きを喜びに、悲しみを喜びに変えてくださいます。若者だけではありません。老人、高齢者にも喜びが訪れます。
 ヨハネによる福音書にもどります。
 11節です。
 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 「しるし」とありますが、何の「しるし」でしょうか。イエスさまが救い主、キリストであるしるしです。
 「しるし」です。証拠ではありません。わたしたちは、神さまやイエスさまを目に見える証拠によって確認するのではありません。わたしたちは、神さまやイエスさまを、しるし、サインによって、信頼するのです。神さまやイエスさまのしるし、サインをキャッチ棄て、目に見えない神さま、目に見えないイエスさまを信頼するのです。
 悲しみを喜びに変えてくださるイエス・キリスト、わたしたちのために良いぶどう酒を今までとっておいてくださったイエス・キリストを、わたしたちは弟子たちとともに、今日あらためて、心から、ふかくふかく信頼しようではありませんか。
 お祈りいたします。
 神さま、わたしたちは悲しみに沈んでいましたが、あなたは、それを喜びに変えてくださいました。神さま、悲しみと喜びは、ときに、重なり合っています。兄が地上の旅を終えた悲しみとともに、兄が天のあなたのもとに召された、まねきいれられた喜びをわたしたちは感謝いたします。神さま、若い人も年をとった者も、この一瞬一瞬、あなたが今まで取っておいてくださった良いぶどう酒を味わわせてくださる、その恵みに心から感謝いたします。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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イエス・キリストとの出会い [使信]

使信 2024年1月14日 
「イエス・キリストとの出会い」  ヨハネ1:35-51

 おはようございます。皆さんはどのようにして、教会に来るようになられたのでしょうか。あるいは、どのようにしてキリスト教を信じるようになられたのでしょうか。あるいは、イエス・キリストとはどのように出会われたのでしょうか。
 親がクリスチャンだった、クリスチャンホームに生まれたので、イエス・キリストと出会った・・・という方はおられるでしょうか・・・。
 幼稚園がキリスト教の幼稚園だったのがきっかけだ・・・という方はおられるでしょうか・・・。昨年洗礼を受けた高校生は、幼稚園がキリスト教の幼稚園で、幼稚園の行事か何かで、教会の礼拝に出て、聖餐式を見て、これはいいなと思いつづけてきた、と言っていました。
 中学生、高校生のころに教会に行くようになって、イエス・キリストと出会った、という方はおられるでしょうか・・・。
 それ以上の年齢になって、たとえば、人生の悩みを抱えるようになって、教会に来てみた、という方はおられるでしょうか・・・。
 わたしの場合は、両親がクリスチャンだった、父親が牧師だった、ということですね。父は、戦争から帰ってきて、人生の意味を考え直そうと、キリスト教会の門をたたいたようです。
 母の場合は、母の母、つまり、わたしの祖母が、人生においてつらい経験をし、神さまなど信じられなくなったそうですが、せめて自分の娘二人には神さまを信じられるようになってほしいと、母はプロテスタントの東京女子大学へ、母の妹はカトリックの白百合へ行かせたそうです。しかし、祖母は、プロテスタントとカトリックの違いも共通点も知らなかったそうです。ただ、キリスト教の学校に子どもを行かせて、神さまを信じるようになってほしいと願ったそうです。
 わたしは、そのような両親のもとに生まれ、生後半年のイースターで幼児洗礼を受けました。赤ん坊は言葉による信仰告白などしませんが、洗礼には人間の側の信仰告白、信仰の決意だけでなく、神さまの側の恵み、愛という意味があると考え、また、親の信仰によって子どもを育てるということも加味すれば、赤ん坊への洗礼もあり、とする信仰もありうるわけです。
 そして、高校2年生の時に、信仰告白をしました。これは、神さまの恵みや親の信仰によって幼児洗礼を受けた者が、青年期になる、あるいは、成人になったときに、使徒信条という古来からの信仰告白を学び、それを自分の信仰として告白するものです。もっとも、わたしは、自分から進んで、ではなく、親に言われて、そうしたわけです。
 わたしの子どもたちもそうだったと思います。うちの子どもたちが生まれた時は、わたしは幼児洗礼の習慣がない教会の牧師をしていましたので、自分の子どもたちに幼児洗礼を施すことはしませんでしたが、関田先生のご紹介もあり、まもなく、幼児洗礼をするメソジスト系の教会に転勤しましたので、そこで、子どもたちに洗礼を授け、その十数年後、信仰告白の式、これは堅信式、信仰を堅くする式、堅信礼とも言いますが、それを行いました。
 わたしの話に戻しますと、わたしは高校時代に親に言われるままに、堅信礼を受けました。自分からキリスト教に関心を持つようになったのは大学生になってからです。
 小さな教会で牧師さんとふたりで、イエス・キリストの十字架と復活についての本を読みました。わたしたち人間は罪人である、という教えは、わたし自身に照らしてみると、じつに説得的でした。けれども、その罪が、イエス・キリストの十字架によって赦された、という教えは、じつに画期的でした。罪と赦し、というキリスト教の教えにひじょうに魅力を感じました。
 しかし、牧師さんから勧められてではなく、自分の知的関心から、荒井献さんや田川建三さんの本も読むようになりました。田川さんというのは、荒井さんの後輩ですが、荒井さんに対しては、辛辣なことを書く人です。けれども、ふたりとも、歴史上のイエスという人物を描く歴史家です。
 彼らが描くイエスという人は、十字架についてわたしたちの罪を赦すキリストという側面ではなく、その時代の貧しい人、罪人と呼ばれている人の立場に立ち、それを虐げる権力者に抵抗する人です。そのようなイエス像にもわたしは強くひかれました。
 また、カール・バルトという人がいまして、この人は、イエス・キリストは神の言葉である、イエス・キリストは人間を無条件に救う神の愛そのものである、というようなことを言ったのですが、これにも強く惹かれました。
 これらのいくつかのイエス像、イエス・キリスト像は、厳密にはぴったり重なり合うものではありません。では、今、わたしがイエス・キリストをどのような存在として信じているかと言うと、わたしは、これらのさまざまなイエス像、イエス・キリスト像は、引き出しのようなもので、TPOに応じて、どれかの引き出しを開ける、あるいは、どれかの引き出しが開かれる、といった感じです。
 このように、イエス・キリストとの出会いは、人それぞれだと思いますが、今日の聖書も、イエス・キリストとのさまざまな出会いが描かれているように読むこともできるでしょう、
 ヨハネによる福音書1章35節です。1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
 洗礼者ヨハネは、イエスのことをここで「神の小羊」と言っています。これは、先週も申し上げましたように、わたしたち人間の罪を赦すために神さまにささげられる小羊のことです。わたしたち人間の罪を赦すために、わたしたちに代わって十字架につけられ罪の罰を受けた神の子。それがイエス・キリストだと、ここで、ヨハネは言っています。
 37節です。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
 ヨハネに代わって、二人の弟子たちにとっては、イエスとはどのような存在だったのでしょうか。ここに「泊まる」、宿泊の泊ですね、「泊まる」という動詞が三度繰り返されています。イエスのもとに泊まるとはどういうことでしょうか。
 これは、イエスと一緒にいる、あるいは、イエスについていく、ということではないでしょうか。イエスと一緒に歩むということではないでしょうか。弟子たちがイエスと一緒に歩む、あるいは、わたしたちが聖書を読むことでイエスと一緒に旅をする。そこにはどんなことがあるでしょうか。
 イエスは病人を癒しました。人々から見捨てられ、隔離された病人を癒しました。また、イエスは、罪人と言われ世の中から斥けられた人びとと話をしたり食事をしたりしました。
 あるいは、イエスは神の国を語りました。この世界を本当に治めているのは王ではなく、神さまであると語られました。ここは神さまの国であると語られました。そして、神さまの国は、種から育つ植物のように、あるいは、パン種によってパンが膨らむように、生き生きとしていて、大きく育っていくもの、いのちにあふれたものであることを、イエスは語りました。
 あるいは、イエスは嵐を静めました。嵐に慌てる弟子たちに平安をもたらしました。あるいは、イエスは何千人もの人びとと食事をわかちあわれました。十字架につけられる前の晩にも、弟子たちと食事をわかちあわれました。
 あるいは、イエスは空の鳥、野の花のごとく神さまを信頼しました。十字架につけられる前の晩も、この苦しみを取り除いてくださいと祈りつつも、神さまにすべてを委ねました。イエスは十字架につき、死んで葬られましたが、復活して弟子たちのところにあらわれました、と福音書は語っています。
 イエスのもとに「泊まる」ということは、このようなイエスの生涯と一緒に歩むということではないでしょうか。二人の弟子はイエスとこのような出会いをしたのではないでしょうか。
 40節です。1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
 アンデレは、イエスをメシアだと言いました。メシアとは、油を注がれた者という意味で、旧約聖書では、王や祭司や預言者が立てられる時に油を注がれました。また、そのような救い主、イスラエルの民を救う者が現れると信じられていました。
 王とは国を治める者です。イエスは神の国を治める者、神の国の王と言えるかもしれません。祭司とは人を神さまにとりなす者です。イエスはわたしたち人間を神にとりなす者と言えるかもしれません。「イエス・キリストの御名によって、お名前によって祈ります」とは、イエス・キリストのとりなしによって祈ります、という意味でもあるでしょう。預言者とは神の言葉を語る者です。イエスは神の言葉を語る者でありましょう。そして、イエス・キリストは苦しむ民を救う救い主である、とアンデレは信じたのでありましょう。
 42節です。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
 このシモンとはペトロのことです。ペトロとはギリシャ語で「岩」という意味ですが、これは、ヘブライ語ではケファと言ったようです。
 ペトロはイエス・キリストから「岩」と呼ばれました。これにはどのような意味があるのでしょうか。マタイ福音書では、イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言ったとあります。ペトロはそのようなたしかな人物だったのでしょうか。あるいは、頑固な人物だったのでしょうか。
 あるいは、ペトロはのちにイエスのことを三度知らないというような弱い人物であったから、そのような弱い人物が強くなるように、という願いが込められていたのでしょうか。
 旧約聖書には「救いの岩」という言葉が何度か出てきて、これは、神さまを形容する言葉ですが、砂漠や荒れ地の大きな岩は大きな影を造り、そこで人びとは雨、風、砂、日差しなどから守られるというイメージがあると聞いたことがあります。
 いずれにせよ、ペトロはイエスから名前をもらうというような出会いをしました。ちなみに、林巌雄の巌雄もペトロから来ています。イエス・キリストを裏切るような人物の名前を付けやがって親父は・・・などと思ったこともありましたが、父の神学校の卒論はペトロの研究だったそうで、じゃあ、いいか、と受け入れもしました。
 43節です。1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
 フィリポはイエスに従うように招かれました。イエスに従うとは先ほど申し上げた病人を癒したり虐げられている人びとに近づいたり神の国を宣べ伝えたりしたイエスに従って生きるということでありましょう。
 45節です。1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
フィリポは、また、イエスと出会い、この方は、モーセや預言者が預言したお方だと思いました。
 49節です。1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
ナタナエルは、イエスと出会い、神の子、イスラエルの王だと思いました。
 51節です。1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
 イエスご自身は、ご自分は、天の神さまのことを地上の人間に伝えるものだ、と言っておられるように思われます。
 このように、今日の聖書の中では、それぞれの人がイエス・キリストとそれぞれの出会い方をしています。わたしたちも、それぞれがそれぞれの仕方でイエス・キリストと出会ってきたのではないでしょうか。
 そのうちのどの出会い方が正しく、どの出会い方は間違っている、というようなことはないでしょう。神さまとの出会いの多様性は、むしろ、神さまの恵みの多様性、神さまの愛のゆたかさを示しているのではないでしょうか。
 イエス・キリストが虐げられた人びとを訪ねたこと、病人に寄り添ったこと、神の国を宣べ伝えたこと、旧約聖書の時代から待ち望まれた救い主であること、十字架につかれ陰府に降ったけれども復活なさったこと、神さまの存在と愛と力を誰よりも強く深く感じ、受け取り、それをわたしたちに今なお伝えてくれていること。
 これらのことがわたしたちとイエス・キリストとの出会いを織りなし、キリスト教信仰をゆたかにしてくれていると信じます。
 祈りましょう。神さま、聖書の中でも、人びとはそれぞれの仕方でイエス・キリストと出会いました。わたしたちもまたそれぞれの仕方でイエス・キリストと出会っています。わたしたちがそれぞれの出会いを神さまの恵みのゆたかさとして受け取ることができますように。神さま、不安や弱さを抱えている人がいれば、イエス・キリストと出会い、神さまを信頼して歩むというひとつの道をお示しくださいますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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余の罪を取り除く小羊 [使信]

使信 2024年1月7日  「余の罪を取り除く小羊」  ヨハネ1:29-34
 新年おめでとうございます。しかし、何がめでたいのでしょうか。2024年になったからでしょうか。けれども、これは、イエス・キリストの生まれた年を、正確ではないけれども、おおよその見当で想定して、それを元年、つまり、第1年とした暦では、今年は2024年になるということで、その点では、キリスト教と関係がありますが、1月1日と決められた日についてはどうでしょうか。
 365日、あるいは、366日のうちのある1日を1月1日と決めるのですが、今わたしたちが使っている西洋暦では、1年で一番夜が長く昼が短い日、言い換えれば、これからは昼が長くなっていく日、太陽の出る時間がこれからは長くなっていくという日、つまり、冬至ですね。この冬至からおよそ10日後を1月1日にする、1年の初めの日とする、というのは、キリスト教とはとくに関係のないことと思われます。
 今わたしたちが使っている西洋暦は冬至の日から十日くらい後を1月1日、つまり、新年としますが、たとえば、この西洋暦では4月1日にあたる日を1月1日にする、一年の始まりにする暦が世界のどこかにあっても構いませんし、げんに、ユダヤ教では西洋暦で言えば9~10月にあたるころに新年をお祝いします。
 西洋暦ができる前のユダヤ教では、「ああ、今は9月だけれども、新年を祝おう」などとは思っていません。西洋暦以前のユダヤの暦では、ああ、今は9月だ、などと思わず、ただ、ああ、新しい年が来た、と思うはずです。
 ですから、わたしたちは、新年おめでとうございます、などと言いますが、今日が新年の7日目だ、新しい年の7日目だ、などと思うのは、人間の作った制度の上でのことに過ぎません。神さまが6日前を新年の始まりとしたわけではありません。
 神さまは、人間の作った暦、人間の作った制度、わたしたちのなすこと、考えることをはるかに超えたところで、働いておられます。
 神さまは、たしかに、時を創ってくださいましたし、神さまは、今も時を創ってくださいます。しかし、それは、西洋暦の1月1日や新年に束縛されるものではありません。
 神さまは、むしろ、西洋暦の1月1日や新年に限らず、つねに、時を新しくしてくださいます。そして、神さまは、つねにわたしたち自身を新しくしてくださいます。
 何がめでたいのかと言えば、神さまがわたしたちをつねに新しくしてくださり、わたしたち自身を新しくしてくださることがめでたいのです。
 老化などという言葉があり、たしかに、目も、耳も、筋肉も衰えますので、わたしたちの何が新しくなっているのかと思われるかもしれませんが、わたしたちの考え、わたしたちの心、わたしたちの精神は、じつは、日々新しくされています。
 それがいちばんよく表れるのは、聖書の言葉を読んで、ああ、神さまのこんな恵み、こんな愛は知らなかった、と教えられることです。あるいは、すでに知っていたと思われることでも、あらためて、聖書に現れる神さまの恵み、愛の新しさに触れる時、わたしたちは新しくされるのです。
 ところで、今日の説教の題は「余の罪を取り除く神の小羊」としました。罪とは何でしょうか。わたしは悪いことなどしていません、と思う人もおられることでしょう。けれども、罪とは、神さまから離れてしまうこと、そして、自分以外の人からも心が離れてしまうこと、その結果、自分自分としか言わない自分になってしまうことです。神さまにお任せせず、何でも自分でやってしまおうとし、その結果、人を傷つけてしまいます。罪とは、このように、神さまと隣人から離れてしまうことです。
 その最たるもののひとつが戦争です。ロシアとウクライナでは戦争がほぼ2年続いています。ミサイルが打たれ、戦闘が続き、何千人、何万人が死に、もっと多くの人びとの生活が破壊されています。イスラエル・パレスチナの戦争ももう3か月も続いています。やはり、何千人、何万人も死に、かろうじて生き延びているガザの人びとにも食糧不足、飢え、飢餓が襲い掛かっていると報じられています。
 これは、集団殺害犯罪、ジェノサイド、民族虐殺である、と南アフリカ共和国は国際司法裁判所に訴えています。狭い地域にたくさんの人びとを封じ込めて、生命を奪う、これは、かつて、南アフリカの黒人市民が受けた経験でもありました。
 沖縄では軍事基地が強引に建設されています。県民が望まず、県が許可を出さないのに、代執行と言って、国が勝手に埋め立ての許可を出してしまいました。地方自治が損なわれています。
日本にいることが認められず入国管理事務所の収容所に入れられ、そこで病気になっても治療を受けられず、結果的に殺されてしまった外国人がいます。
 これらのことは、皆、わたしたち人間の罪、自分自分と言い続けるわたしたち人間の罪ではないでしょうか。
 国家の罪だけでなく、個人の罪もあります。ガラテヤの信徒への手紙にはこうあります。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 わたしたちも、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみを抱えていないでしょうか。わたし自身をふりかえりますと、どうしても、自分は相手より高いところにいるつもりになってしまって、人をわたしの思うようにさせようとしてしまうことがあると反省せざるを得ません。
 牧師としては教会に来る人びとに自分の考えをどうしても押し付けようとしてしまいます。親としては子どもたちに自分の思いどおりにさせようとしてしまいます。教師としては生徒に、自分の考え方を身につけさせようとしてしまいます。先輩牧師としては神学生に、自分の神学、信仰、牧師像を受け入れさせようという気持ちがあります。
 ようするに傲慢なのですね。自分はわかっている。自分の考え通りに相手にもさせたい。このような罪を抱えています。
 国や社会としての罪、そして、個人としての罪、世の中の罪、世の罪は、わたしの罪、余の罪でもあります。戦争は、世の中の罪、世の罪であると同時に、わたしの罪、余の罪でもあるのです。
 このような罪を抱えるわたしたちはどのように生きればよいのでしょうか。どうすれば、この罪から救われるのでしょうか。
 洗礼は、このような罪からの救いと密接につながっています。けれども、洗礼を受ければ、ただちにこのような罪から救われる、このような罪と無関係になるわけでもありません。
 しかし、このような罪人であるにもかかわらず、神さまはわたしたちに生きることを許してくださったこともたしかだと思います。わたしたちは、罪人であるにもかかわらず、生きることを許されている者として、どのように生きるのでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書1章29節です。1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
 神さまの独り子イエス・キリストが罪人であるわたしたちの代わりに十字架で罰を受け死んでくださったので、わたしたちの罪は赦された・・・キリスト教にはこのような信仰があります。
 今の聖書の「神の小羊」という言葉にもそれが読み取れます。旧約聖書を読みますと、人間が神さまに赦していただくために、小羊をささげています。この場合の小羊は、家畜としての羊、メーメーなく羊、焼けばジンギスカンになる羊のことですね。
 ところが、新約聖書では、メーメーなく羊ではなくて、イエス・キリストが神さまにささげられる最後の小羊になって、人間の罪の赦しが完成する、と信じるのです。
 けれども、わたしたち人間の罪の赦しについて、今日の聖書は、さらにいくつかの点を述べています。30節です。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
 「わたしの後から来る人がいる」「わたしにまさる人がいる」「わたしよりも先におられた方がいる」とあります。ようするに、洗礼者ヨハネは、自分は神さまにとって代わる者でもなければ、神さまに並び立つ者でもないし、自分がいちばん偉いのでもない、と言うのです。
 わたしたちは「自分はできる、自分は知っている、このことについては、自分は正しい」と思ってしまい、そのようにふるまってしまうのではないでしょうか。けれども、ヨハネのこの「わたしにまさる人がいる」という言葉は、「自分以外の考えの人もいる」「正しい考え方は自分の以外の人の考え方にも見いだせる」という道を切り開いてくれます。
 ようするに、他者を敬うことです。自分以外の人、自分以外の存在に敬意を払うということです。自分以外の存在の最たるものが、神さまであり、イエス・キリストです。わたしたちが神さまを信じる、イエス・キリストを信じる、ということは、わたしたちが神さまやイエス・キリストに聞き従おうとすることです。聞き従うためには、わたしたちは、「自分は正しい」という姿勢から離れなくてはなりません。また、それは、「神さまやイエス・キリストが正しいことを知っている自分は正しい」ということでもありません。
 神さまやイエス・キリストには一度聞いたらおしまい、一度わかったらおしまい、というのではなく、繰り返し聞き続けることが大切です。神さまやイエス・キリストに耳を傾け、これは正しいと思った、それでおしまいではなく、何度も何度も、生涯、繰り返し、繰り返し、神さまとイエス・キリストに耳を傾けつづけることです。
 そして、それと同じように、わたしたちは、他者にも耳を傾け続けることです。そのようにして、わたしたちは、自分自分にならず、他者に聞き続ける姿勢が大切だと思います。このような生き方が、じつは、神さまから罪を赦された者の生き方ではないでしょうか。
 32節です。1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
 イエス・キリストは聖霊、神さまの霊を受けました。そして、それを人びとにも注ぎました。そうするとどうなるでしょうか。どうなることが期待されるでしょうか。
 先程のガラテヤの信徒への手紙に戻りますと、こうあります。5:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 聖霊、神さまの霊によって、わたしたちは、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和へと促されます。わたしたちは新しくされます。
 「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」とあります。イエス・キリストの聖霊によって洗礼を受けるとは、わたしたちの欲情や欲望、つまり、自分自分という思いを十字架につけてしまうことです。自分中心の生き方を放棄することです。
 じっさいには、これは至難の業です。けれども、わたしたちの中にある自分中心の部分を少しでもあらためようとする生き方はわたしたちにもできるのではないでしょうか。
 最近読んだ本にこんなことが書かれていました。「洗礼の目標は、イエス・キリストに目を向け、イエス・キリストに向かって進み、イエス・キリストに希望を抱くことである。そして、洗礼の意味は、これまで自分だけを見ていた生き方から、神さまに向かって方向転換することである。洗礼は、イエス・キリストに従って歩み出す第一歩である。洗礼を受けることは、この世界で愛の働きをする神さまのお働きに参加することである」
 洗礼において、神さまはわたしたちを新しくしてくださいます。洗礼を受けるわたしたちは、神さまにしたがう新しい生き方を始めるのです。
 それは、これから洗礼を受ける人だけにあてはまるのではありません。すでに洗礼を受けたわたしたちも、日々新たに、神さまの御言葉によって、神さまのお働きである聖霊によって、すでに受けた洗礼をあらたにされ、新しくされ、自分ではなく、新しく、神さまにしたがって生きる、そして、隣人を尊重しながら生きる、そのように新しくされているのです。この神さまのお働きに、このお招きに、わたしたちも応えようではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちは洗礼によって新しくされ、神さまと隣人に従う新しい生き方へと招かれました。わたしたちは、この洗礼の新しさを、今日あらためて思い起こし、今日あらためて新しい人生を歩み始めることができますように、お導きください。たとえ、これまでが罪に満ちた人生であったとしても、今日から罪を赦された者として、神さまと人を心から愛する者へと、わたしたちを新しくしてください。あなたがわたしたちを新しくしてくださったこと、新しくしてくださることを、心から受け入れることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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新しい道 [使信]

使信 2023年12月31日  「新しい道」  マタイ2:1-12
 おはようございます。今日は、最初に皆さんに質問をしたいと思います。生まれたばかりのイエス・キリストを訪ねて来た博士は何人いたでしょうか。1)ひとり 2)三人 3)わからない・・・いかがでしょうか・・・正解は、3)の「わからない」です。
 聖書には博士の人数は書いていません。ただ、イエス・キリストにささげた贈り物が黄金、乳香、没薬の三つなので、三人のような気がするだけです。クリスマスのページェントや絵本や物語でも、黄金、乳香、没薬の三つの贈り物があることにつられて、博士はたいてい三人出てきますから、わたしたちもそれにつられて、何十年も博士は三人と思って来たのではないでしょうか。
 もうひとつ申し上げますと、今、「博士」と申し上げました。けれども、先ほどお読みいただいた新共同訳聖書では「占星術の学者たち」とありました。これはどういうことでしょうか。
 これは、新約聖書の元々の言葉であるギリシャ語ではマゴスとあるのですが、このマゴスというギリシャ語を「博士」と訳してみたり「占星術の学者たち」と訳してみたりしたということです。
 日本聖書協会という聖書を出している協会、ソサエティでは、今わたしたちが使っている新共同訳聖書の前の口語訳聖書では「博士」と訳していました。ところが、新共同訳では、これを「占星術の学者」としたのです。けれども、日本聖書協会の一番新しい聖書の翻訳である「聖書協会共同訳」というものではこれをふたたび「博士」に戻しています。
 長生きはするものですね。博士が占星術の学者なんて舌を噛みそうな言葉に変えられてしまったのですが、それが、何十年か経って、ふたたび博士に戻されたのです。ただし、教会で使う聖書を今の新共同訳から一番新しい「聖書協会共同訳」に変えない限り、教会ではまだまだ「博士」ではなく「占星術の学者たち」と言われ続けることになります。どうしたものでしょうか。
 ところで、クリスマス、つまり、イエス・キリストが生まれたことは、わたしたちにはどのような意味があるのでしょうか。
 ひとつは、イエス・キリストは、闇を照らす光である、わたしたちの生きる闇の世界、世界の闇、わたしたちの心の闇、わたしたち自身の闇を照らす光である、と聖書は言っています。
 ヨハネによる福音書にはこうあります。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである・・・この言も命も光も、皆イエス・キリストのことであり、イエス・キリストはこの世に来てわたしたちを照らしてくれる光だと言うのです。
 それから、イエス・キリストの誕生の物語は、神さまが居場所のない人間に居場所をあたえてくださる物語だと言えるでしょう。
 ルカによる福音書にはこうあります。2:7 マリアは初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである・・・
 マリアと生まれたばかりのイエス・キリストには泊まる場所がありませんでした。現在のわたしたちがどこか居場所のなさを感じているのと似ています。けれども、神さまはマリアとイエス・キリストに飼い葉おけという居場所を与えたように、神さまはわたしたちにも居場所を与えてくださる、神さまご自身がわたしたちの居場所になってくださるとクリスマスの物語はわたしたちに伝えているのではないでしょうか。
 そして、先週は、救い主が生まれたという天使の喜びの知らせは、人口調査のために住民に長旅を命じる皇帝アウグストゥスの勅令にはるかにまさる、というお話をしました。人間の世界の絶望にまさる、神さまからの喜びの知らせがある、ということです。
 では、今日の聖書の箇所からはどんなメッセージを受け取ることができるでしょうか。わたしは、神さまは、わたしたちに別の道、新しい道を創ってくださる、というメッセージを受け取りました。聖書のクリスマスの物語から、神さまは、わたしたちに新しい道を創ってくださるという使信を受け取りました。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書2章1節です。2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 「ヘロデ王の時代」とあります。けれども、まことの王はヘロデ王ではなく神さまであり、イエス・キリストはまことの王である神さまの御子である、キリストを通して神さまこそがまことの王であることが明らかにされていく、その意味で、イエス・キリストもまことの王である・・・聖書はこのことを物語ろうとしています。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」とあります。この場合のユダヤ人の王とは、じつは、ヘロデのような政治的な王、武力、権力で人びとを支配する王のことではなく、ユダヤの地域だけの王でもなく、世界全体に愛と平和をみなぎらせようとするような世界規模の王を意味しているのではないでしょうか。だから、占星術の学者たちのようにユダヤ人でない人びとが外国から拝みに来るのです。
 「拝む」とありますが、これは、ひれ伏す、ということであり、このお方こそ唯一お仕えすべきお方、このお方にならすべてをお委ねできるそのようなお方、このお方をこそわたしたちの根本の頼み、根本の支えにする、そのようなお方・・・「拝む」という言葉には、このような意味が込められているのではないでしょうか。
 3節です。2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
 「不安」とあります。ヘロデ王は新しくユダヤの王が生まれるという話を聞いて、これは、自分と同じレベル、自分と同程度の王、つまり、権力者、民を力で抑える王であると思い、それならば、自分の王位が脅かされることになるかもしれない、と不安になったのです。そして、エルサレムの民も王の不安に巻き込まれ不安に陥ります。王が不安定なら民も不安定になってしまいます。
 4節です。2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした・・・王の不安は、王の画策を生みました。
 不安材料を取り除こうとするのです。新しい王とやらの生まれる場所を知り、殺そうとするのです。自分にとってかわるかもしれない王をいまのうちに殺しておこう、というのです。その結果が、今日の聖書の箇所より5節ほどさきに書かれていますが、ヘロデ王は人を送りベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにさせた、とあります。ヘロデ王が送ったのは兵士であり、ヘロデ王は兵士の力、武力、暴力で、人びとをねじふせたのではないでしょうか。これは二千年の昔だけでなく、今日に至るまで繰り返されてきた歴史です。
 5節です。2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 「預言者がこう書いています」とあります。これは、旧約聖書のミカ書の引用です。ミカ書にはこうあります。5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
 ミカ書では、ベツレヘムは「いと小さき者」、ベツレヘムは人にあまり知られていない小さな町だ、とあるのに、マタイはこれを「決していちばん小さいものではない」と書いています。これは、引用するときに、言い換えたのでしょうか。
 旧約聖書のミカ書はベツレヘムは小さいと言っているのに、マタイはベツレヘムは小さくないと変えて引用しているのでしょうか。救い主、メシアであるイエス・キリストが生まれる前は、ベツレヘムは小さい町、人びとに知られていない町だったのに、今や、救い主、メシアを輩出し、名のある町になった、ということでしょうか。
 7節です。2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 ヘロデ王は「拝もう」と言っていますが、これはうそっぱちで、ヘロデ王はイエス・キリストにすべてを委ねて仕えよう、などという気持ちはこれっぽっちもありません。イエス・キリストを拝むどころか、自分を拝ませたいくらいなのです。
 9節です。2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
 「星が先だって進み」とあります。占星術の学者たちは、王の言葉、王の命令にではなく、星の導きに従ったのです。王の力ではなく、神さまの力が占星術の学者たちを導いたのです。
 10節です。2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 「喜びにあふれた」とあります。さきほど、ヘロデ王は新しい王の誕生の知らせを聞き不安になりました。人びとも不安になりました。けれども、占星術の学者たちは、不安の反対で、喜びにあふれた、とあります。王は民に不安をもたらしますが、神さまの導きはわたしたちに喜びをもたらしてくださるのです。
 11節です。2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 
 「幼子を拝んだ」とあります。ここにみたび「拝む」という言葉が出てきました。先ほどのヘロデ王とは違い、ここで、占星術の学者たちは、まことの意味で、イエス・キリストを拝んだのではないでしょうか。
 つまり、すべてをイエス・キリストに委ねたのです。イエス・キリストの指示通りにしたというよりは、イエス・キリストの導きに委ねたのでしょう。そして、イエス・キリストにお仕えしたのです。イエス・キリストの指図に従ったというよりは、イエス・キリストに導かれる者としてお仕えしたのではないでしょうか。
 黄金、乳香、没薬とあります。しかし、占星術の学者が三人いたのかどうかはわかりません。三人出ないかもしれませんし、三人かも知れません。たしかなことは、この学者たちは、自分たちにとって大切なものをささげた、ということです。
 ささげる、とは、自分一人の所有としないということです。独り占めしない、神さまにいただいたものだから、おしまず他の人びととわかちあうということです。
 12節です。2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 「ヘロデのところへ帰るな」とあります。つまり、「ヘロデ王に従う道を歩むな」ということでしょう。ヘロデ王は、誰かが自分の王座を奪うのではないかと怯え、その人をやっつけてしまう生き方でした。わたしたちも、我を通そうとして人を押さえつけていないでしょうか。そのような生き方に戻るな、と神さまは言われるのです。
 我を通して人を押さえつけるのではなく、人に譲り人と共に生きようとする、そのような、これまでとは別の道、新しい道を歩むように、神さまは、このクリスマス、わたしたちを招いておられるのです。
 人と争わない道です。日本国憲法第9条にこうあります。日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。
 戦争と武力の行使は永久に放棄する。陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。
 つまり、わたしたちは、平和を誠実に求める、国と国の間で葛藤が生じても、戦争もしない、武力も使わない、戦争も武力も放棄する、陸海空軍、軍隊を持たない、交戦権、戦争をする権利は持たない、というのです。
 日本国憲法は76年前にできましたが、すこしも古くありません。その9条は、いまのわたしたちにとっても、まったく別の道、新しい道です。ロシア、ウクライナにとっても、イスラエル、パレスチナにとっても、まったく新しい道、戦争とはまったく別の道です。
 そして、これは、国と国の間だけでなく、わたしたちの日ごろの人間関係にとっても新しい道です。相手と闘わない、相手を力や勢いで抑えつけない、そういうものは放棄する、相手と闘わず、抑えつけず、むしろ、尊重する、これは、まったくあたらしい道、今とはまったく別の道ではないでしょうか。
 これまでとはまったく別の道、新しい道、それは、人を愛する道でもあります。人を愛するとは、自分が勝つのでもなく、自分の意見を通すのでもなく、むしろ、人に譲り、人に譲る、今とは別の道、新しい道なのです。
 あたらしい道、それは、神さまにお委ねする道でもあります。人を押さえつけて自分の力でやる、というのではなく、神さまを信頼して人と共に歩む道です。
 暦の上では、明日から新しい年が始まります。神さまが創ってくださる新しい道をわたしたちは歩もうではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちは、ヘロデ王のように不安を抱え、それを何とかしようと、自分の力に頼り、それに伴い、人を押さえつけてしまいます。人と争ってしまいます。けれども、神さま、あなたは、そのようなヘロデの道ではない道、争わず、人を尊重する新しい道、愛の道を示してくださいました。神さま、国と国の間に葛藤があっても、武力で争わず、話し合いで解決しようとする新しい道を歩むことができますようにお導きください。神さま、わたしたちの人間関係も争わずともに歩むものとしてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
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天には栄光、地には平和 [使信]

使信 2023年12月24日  「天には栄光、地には平和」  ルカ2:1-20

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます・・・けれども、わたしたちは、今、クリスマスおめでとうございます、と無邪気に言ってしまってよいのかどうか、ためらっているのではないでしょうか。しかし、それでは、はんたいに、クリスマスおめでとうございます、と言うのをまったく止めてしまってもいいのか、というためらいもあります。
 さいきん、ある牧師さんがこんなことを言っていました。人がひとりなくなるだけでも、多くの人びとが深い悲しみに陥る。ひとりの人の死んだ悲しみは限りなく深い。戦場で何千人、何万人の人びとが殺されるのなら、この限りなく深い悲しみは、さらに、何千倍、何万倍になる。
 二千年前、今は戦場となっているパレスチナで生まれたイエス・キリストはこれを見て何とおっしゃるだろうか。わたしたちは、クリスマスを笑って祝うことができるだろうか。けれども、たとえば日本の小さな教会、馬小屋の飼い葉おけのような、まぶねのような教会で、わたしたちがこうしてささやかにクリスマスを祝うことを、イエス・キリストはお咎めになるだろうか。いかがでしょうか。
 最近のニュースで、生まれつきの難病を抱えたお子さんが多くの人びとの何億円もの募金に支えられて外国で莫大な費用の掛かる手術を受けてこれからも生きることができることになったと報じていました。
 ひとつのいのちはこうやって一所懸命に守られます。けれども、戦争となれば、それと同じ何万人もの上に爆弾がいとも簡単につぎつぎに落とされます。それは、多くの人びとの何億円もの善意で守られた命が戦争だと言う理由でいとも簡単に奪われるのと同じではないでしょうか。
 戦争、あるいは、災害、あるいは、わたしたち個人に起こる仕事や家族に関わる問題、病気。このような苦しみに満ちた世の中で、わたしたちはクリスマスを祝うことができるでしょうか。それでも、クリスマスを祝うとしたら、それは、どんな意味で祝うのでしょうか。
 第二次世界大戦が終わり、平和が訪れました。1960年生まれのわたしも、小学校中学校時代は、今は平和な世の中だ、と教えられ、育ちました。けれども、じつはそうではありませんでした。
 戦後の平和と呼ばれるものは、じつは、長くは続いていませんでした。平和憲法ができ、武力と戦争を放棄した憲法9条ができました。しかし、日本は朝鮮戦争の特需で利益を上げそれを経済復興の足場にしましたし、ベトナムの人びとを爆撃する米軍の基地を日本は提供してきました。沖縄には軍事基地が集中し、戦闘機が小学校の上に墜落し子どもたちのいのちを奪いました。さらには、アメリカ兵による殺人、暴力が何件も続きました。
 また、大地震がつぎつぎに起こり何万人もの人びとがなくなりました。原子力発電所が大事故を起こし、放射性物質の影響が広い地域に拡散しました。ウクライナ、パレスチナが戦場となりました。戦争は終わることなく続いています。
 わたしたちの世界の現状は絶望的としか言いようがありません。この世界の有力者、政治家、権力者には絶望してしまいます。いや、わたしたち自身、人間というものに、絶望してしまいます。この絶望の中で、わたしたちは、クリスマスのメッセージをどのように受け取ったらよいのでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ルカによる福音書2章1節です。2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
 ローマ皇帝アウグストゥスの名前が挙げられています。ローマ皇帝は、二千年前の新約聖書の世界の最大の権力者であり有力者であり為政者です。この皇帝が勅令を出します。いやおうなしの命令です。住民に登録をせよ、そのために出身地に移動せよ、と強制するのです。住民登録は、支配者が民衆から税金をとりたてるためのものでありましょう。ローマの場合はどうかはわかりませんが、為政者による住民登録は、ある場合は、支配者が民衆を徴兵するためのものでありましょう。
 権力者のそのような命令によって、マリアは身重であるにもかかわらず、旅を余儀なくされました。一時的ではあったかもしれませんが、ナザレの町から、ある意味、追い出されたのです。そして、ベツレヘムに来てはみたものの、そこにも身を置く宿屋がありませんでした。動物の小屋にまで追いやられてしまいます。動物のいる場所だけがマリアに許された場所でした。ただ、そこには、飼い葉おけという、最後の救いがあったと言えるかもしれません。
 現在のパレスチナはどうでしょうか。二千年前ナザレの町からベツレヘムへ移動を余儀なくされたうえに、そこにも居場所がなかったマリアと、2023年ガザ北部から追い出され南部へ移動させられたうえにそこにも生きる場所のない人びと。難民となった人びと。マリアとこの人びとが重ならないでしょうか。
 為政者、権力者、支配者、有力者の意向で、民衆が生きる場を失う世界は、今も二千年前も変わらないと言いたくなります。パレスチナの人びとに唯一の救いである飼い葉おけは存在するのでしょうか。
聖書に戻りましょう。2章8節です。2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
 二千年前、町に居場所がなく、追いやられていたのは、マリアだけではなく、羊飼いたちもそうでした。羊飼いは町には入れてもらえず、町の外で野宿をするしかなかったのです。羊飼いたちも町には居場所がなく、動物と一緒に町の外で野宿するしかありませんでした。
 2章9節です。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
天使は言います。「民全体に大きな喜びを告げる」。天使のお告げは神さまご自身のお告げと同じではないでしょうか。神さまは、民全体に大きな喜びを告げるのです。
 これは、先ほどの皇帝アウグストゥスの勅令とは正反対です。世の中の支配者であるローマ皇帝は、民から税金を取り立てるために、民を支配するために、人びとに移動を強制するのです。けれども、世界をまことに治めておられる神さまは、民全体に大きな喜びを告げるのです。
 この世の支配者からは理不尽な命令が出されますが、この世界の創造者でありまことの王である神さまからは大きな喜びが告げられるのです。
 では、その大きな喜びとはどんなものでしょうか。11節です。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 救い主が生まれる、とあります。この救い主はメシアであると言います。ダビデの町で生まれたと言いますから、二千年前のさらに千年前のダビデ王と同じく、救い主は王である、ということでしょうか。けれども、それは、ローマ皇帝やヘロデ王のようなこの世の支配者、権力者とはまったく違う意味での王なのではないでしょうか。
 なぜなら、この救い主は、宮廷のベッドにではなく動物小屋の飼い葉おけに寝ており、大きな大人ではなく、小さな乳飲み子である、と言うのです。ここには、この世の権力者による絶望の世界とはまったく違う世界、まったくあたらしい世界が示されているのではないでしょうか。
 14節です。2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
「いと高きところには栄光、神にあれ」 栄光は、ローマ皇帝にでもなく、ヘロデ王にでもなく、21世紀の世界の支配者たちにでもなく、「いと高きところ」、つまり、天にありますように、神さまに栄光がありますように、と言うのです。世界を本当におさめているのは、アウグストゥスでもなく、ヘロデでもなく、21世紀の支配者たちでもなく、神さまなのだ、と言うのです。目に見えない神さまが、目に見えない愛で、世界を治めておられる、というのです。
 わたしたちが生きている世界は、支配者の世界、権力者の世界のように、どんなにそのように見えても、本当は、ここは、神さまの国だと言うのです。
 この世界は権力者が悪政をなしつづけ民を苦しめ戦争を続ける絶望の国にしか見えなくても、本当は、目に見えない神さまの希望の国だと天使は言うのです。いや、神さまご自身が言われるのです。
「地には平和あれ」とあります。この平和、地上の平和は、地上の王や支配者たちの軍事力によってではなく、御心、神さまの御心、つまり、神さまの愛によるものです。だから、「地には平和、御心に適う人にあれ」とあります。地上での平和が、軍事力によってではなく、神さまの御心によって、神さまの愛によってありますように、と言うのです。
 ここには、権力者の命令にまさる神さまの喜びの知らせがあります。人間の世界への絶望、権力者への絶望、わたしたち自身への絶望、これらの絶望にはるかにまさる、神さまからの希望があります。神さまという希望があります。
 イエス・キリストの誕生の物語は、神さまのこの希望、世の中の絶望に勝る神さまの希望を表しています。この闇の夜には、しかし、一本のろうそくがある、この絶望の夜には、しかし、神さまという希望があることを、クリスマスの物語は告げています。
 ですから、この絶望の世の中で、人のいのちが奪われていく世の中で、クリスマスを無邪気に喜んでよいものかという疑問、深い憂い、深い悲しみをわたしたちは抱きつつ、それでもなお、この悲しみの中に、この闇の夜に、支配者の無理な勅令にまさる神さまからの喜びの知らせがある、この世の私たちの苦しみにまさる神さまからの喜びの知らせがある、そのような大きな希望があるのです。その意味で、わたしたちは、イエス・キリストの誕生を喜ぼうではありませんか。
 祈り:神さま、わたしたちの世界は絶望で満ちています。人の命がいとも簡単に奪われ続けています。わたしたちにも苦しみが絶えません。人の世を見れば、ここは闇です。喜びはありません。けれども、神さま、あなたは、支配者の命令とはまったく違う喜びの知らせ、わたしたちの苦しみとはまったく違う喜びの知らせ、福音を告げてくださいました。飼い葉おけの乳飲み子にこそこの世の救いがあるという希望を告げてくださいました。このことに心から感謝いたします。この絶望の世を、この闇の世を、神さま、あなたを希望として、イエス・キリストを光として、わたしたちを歩かせてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。


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今に会える [使信]

説教 2023年12月17日 マタイ1:18-25 「今に会える」

 おはようございます。今日のお話は、まず、クイズから始めてみたいと思います。
 第一問。イエス・キリストの誕生日は12月25日である、と新約聖書に書いてあるでしょうか。書いてあると思う方はグーを、書いていないと思う方はパーを出してください。
 第二問。インマヌエルとはどういう意味でしょうか。神さまはここにはおられない、という意味だと思う方はグーを、神さまはわたしたちとともにおられる、という意味だと思う方はパーを出してください。
 では、第三問。最後の問題です。これは少し難しいですね。ですから、間違っても大丈夫です。安心してください。
 では、第三問。イエスというお名前はギリシャですが、これを旧約聖書のヘブライ語で言うとどうなりますか。モーセと思う方はグーを、ヨシュアと思う方はパーを出してください・・・
正解は〇〇です。でも、これは、一番難しい問題ですから、△△を出した方も大丈夫です。安心してください。
 さて、今日はアドベント第三主日、待降節第三主日、ろうそくも三本になりました。いよいよ、イエスさまが近くになってきました。イエスさまはもうすぐ近くまで来ておられます。イエスさまがお越しくださるのが本当に楽しみですね。
 では、イエスさまがもうすぐ近くまで来ておられることにわくわくしながら、今日の聖書を振り返ってみましょう。
 マタイによる福音書1章18節です。1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 「二人が一緒になる前に」とあります。では、マリアとヨセフの二人はいつ一緒になったのでしょうか。これは、24節にこうあります。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。
 18節ではマリアとヨセフはまだ一緒になっていませんでした。ところが、24節では、二人は一緒になったようです。
 二人はどのようにして一緒になったのでしょうか。二人の間に何が起こったのでしょうか。
それは、二人がおたがいに一緒になる前に、神さまが二人と一緒におられるようになった、ということです。神さまがマリアとヨセフの二人のところにお越しくださり、二人と一緒におられるようになったから、それに基づいて、二人も一緒にいるようになったのです。
 ふたりが一緒になる前に、夫婦でも、あるいは、夫婦以外でも、人と人、わたしたち人間と人間が一緒になる前に、その土台には、神さまがわたしたち人間が一緒におられる、ということがあるのです。
神さまがわたしたち人間と一緒にいてくださる、という大きな出来事の上に、わたしたち小さな人間と人間が一緒にいるという出来事が乗っかっているのです。
 神さまがわたしたちと一緒にいてくださる、さきほどのクイズにもありましたが、これをインマヌエルと言います。献金の時も、インマヌエルという賛美の歌がささげられましたね。このインマヌエル、神さまがわたしたちとともにいらしてくださる、という土台によって、わたしたち人間同志も一緒にいるという出来事が支えられているのです。
 ですから、もし、わたしたちが誰かと一緒にいるということが揺らぎそうになったら、神さまがわたしたちと一緒にいてくださるということを、つまり、インマヌエルを思い出してみてください。
19節です。1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 ヨセフは正しい人でした。そして、ある意味、やさしい人でもあったようです。けれども、ヨセフの正しさは、少し冷たい正しさであったのかも知れません。
マリアが身ごもっている。この驚くべき出来事を知り、ヨセフは、最初は、マリアは自分以外の男性と関係を持った、と考えたのではないでしょうか。
 当時のユダヤの律法では、それは、姦淫と言って、石打の刑を受けることになっていたようです。けれども、ヨセフは、それではマリアがかわいそうだと思い、このことは表ざたにしない、けれども、マリアとは縁を切る、マリアと一緒にならない、と決めたようです。
 ヨセフは、やさしいようですが、ここには、どこか、冷たい正しさ、四角四面の正しさが感じられないでしょうか。
 けれども、神さまの正しさは、冷たい正しさ、四角四面の正しさではありませんでした。神さまの正しさは、丸い正しさ、あるいは、丸みのある正しさ、楕円のような正しさだと思います。
まん丸の円も楕円も丸いことには変わりがないのですが、楕円にはふたつの焦点があるそうです。
焦点がふたつある。最近の言葉で言えば、二刀流ですかね。大谷選手にはピッチャーとバッター、投げることと打つこと、ふたつの焦点があります。十年で1000億円の収入だそうで、一年で100億円です。ただし、来年は、大谷選手は手術をしたばかりですから、ピッチャーはできず、バッターだけです。バッターだけで、一年間100億円。そうすると、再来年、二刀流に戻ると、200億円になるのでしょうか。
 話を元に戻しますと、ヨセフの正しさは、どうも四角い正しさのようですが、神さまの正しさは、丸みのある正しさだと思うのです。
 20節です。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
ここには天使の言葉があります。天使の言葉はそのまま神さまのお言葉であり、これは、ヨセフの思い、人の思いにはるかにまさります。天使の言葉、神さまのお心は、四角四面の人の思いにはるかにまさる丸い思いです。
 「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」「恐れるな」と神さまは言われます。何を恐れてはならないのでしょうか。
 ひとつは、人の目です。ヨセフは姦淫したマリアと結婚した、とんでもないことだ、という人の目です。そんな人の目を恐れてはならない、と神さまは言われるのです。
 わたしたちも、大事な人は、人目を恐れずに受け入れ、大事なことは、人目を恐れずになすべきではないでしょうか。神さまは、人目を恐れるなとおっしゃってくださいます。
 もうひとつは、神さまです。神さまを怖がるな、神さまがなさることを怖がらなくてもよい、と神さまは言われるのです。マリアから神さまのひとり子が生まれてくる、この神さまのご計画を怖がるな、神さまを畏敬の畏の字で畏れはしても、恐怖の恐の字で恐れるな、と神さまは言われるのです。わたしたちは、神さまに畏敬の念は抱きつつも、恐怖を感じなくても良いのです。むしろ、勇気をもって、神さまのなさることを受け入れるべきなのです。
 ヨセフ、そして、わたしたち人間の思いでは、マリアは不義によって子を宿した、ということになります。四角四面の正しさからは、そうなります。マリアは不義を働いた。この不義を姦淫とか不倫とか言いますが、最近の岩波書店から出た新約聖書では、これを、結婚破り、と訳しています。結婚破り・・・なかなか斬新な翻訳ですね。
 けれども、神さまは、これを、不義とも姦淫とも不倫とも結婚破りともおっしゃいません。そうではなく、マリアは聖霊によって子を宿した、と神さまは言われます。聖霊によって、つまり、神さまご自身の愛によって、神さまご自身の力によって、神さまのご自身の御臨在によって、マリアは、御子イエス・キリストを宿した、と神さまは明言なさるのです。
 神さまの正しさは四角四面ではなく、このように丸いのです。楕円なのです。楕円にはふたつの焦点があるとさきほど申し上げましたが、神さまには、父、御子、聖霊の三つの焦点がありますから、これは、楕円というよりも、角が丸いおにぎり、角が大きく丸いおにぎりのような形になるのかもしれません。こんな感じですかね。
 23節です。1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
「インマヌエル」とあります。「神さまはわたしたちとともにおられる」とあります。
アドベント、待降節は、このインマヌエルがやってくるのを、ともにいらしてくださる神さまがお越しくださるのを、わくわくしながら、希望を持って、待つ季節、待ち望む期間です。
 何を待ち望むのでしょうか。インマヌエルを待ち望むのですが、言い換えますと、これは、イエス・キリストの誕生を待ち望むのです。
 さらには、イエス・キリストの再臨を待ち望むのです。つまり、イエス・キリストは、天からこの地上にお生まれなって、この地上で神さまの国を宣べ伝え、けれども、十字架につけられ、しかし、復活し、天に帰って行かれましたが、そのイエス・キリストがふたたびここにお越しくださる、これを再臨と言いますが、アドベントは、この再臨を待ち望むのです。
 そして、イエス・キリストが再びお越しくださるとき、イエス・キリストが再臨なさるとき、ここには、神さまの国が完成します。イエス・キリストの再臨と、神さまの御国が完成することは同じことです。
 この後の聖餐式では、「マラナ・タ、主の御国が来ますように」と歌います。「マラナ・タ」とは「主よ、お越しください」「イエスさま、お越しください」ということであり、そうすると、「マラナ・タ、主の御国が来ますように」とは、「イエスさま、ふたたびここにお越しください、神さまの御国をここに打ち立ててください」ということですから、まことにアドベントにふさわしい讃美歌だと思います。
 イエス・キリストが再臨するとき、神さまの御国がここにやってくるとき、イエスさまがお越しくださるとき、何が起こるでしょうか。
 この日、これまでかなわなかったように思われるすべてのことがかなえられます。世界には戦争のない平和が訪れます。わたしたちの心には嵐のない凪、静けさが訪れます。あらゆる病が癒されます。あらゆる苦しみからわたしたちは解き放たれます。悲しみつつ別れた人びとと喜びながら再会します。
そういう日が来ます。わたしたちは、そういう日を待ち望んでいるのです。そういう日がかならず来ます。アドベントはそういう日、イエス・キリストがお越しくださる日を待ち望む、わたしたちの生き方、わたしたちの信仰生活をあらたにする期間なのです。
 讃美歌21という讃美歌があって、その236番にはこういう歌詞があります。わたしは、この讃美歌が大好きです。こんな歌詞です。
1 見張りの人よ 夜明けは まだか
  いつまで続く この闇の夜(よ)は
  旅ゆく人よ 東の空に
  あけの明星(みょうじょう) ひかり輝く

2  見張りの人よ あの星こそが
  約束された 時のしるしか
  旅ゆく人よ 暗いこの世に
平和を告げる 夜明けは近い

3 見張りの人よ 朝は来るのか
  すべての恐れ 消えゆく朝は
  旅ゆく人よ 恵みの光
  やがて現われ ゆくてを照らす

4 見張りの人よ 眠らぬ夜の
  つとめが終わる 夜明けは近い
  旅ゆく人よ 世の光なる
  主イエスは近い 救いは近い

 見張りの人とは、夜警さん、門番をしている人なのだと思います。この見張りの人に、ある旅人が尋ねます。
 「見張りの人よ 夜明けは まだか  いつまで続く この闇の夜(よ)は」
 「夜明けはまだか、いつまで続く、この闇の夜は」・・・これは、まさに、わたしたちみんなの思いではないでしょうか。
戦争はいつまで続くのでしょうか。病はいつになったら治るのでしょうか。仕事や家族のこの問題はいつになったら解決するのでしょうか。いったいいつまで待たなければならないのでしょうか。
 けれども、見張りの人は答えます。「旅ゆく人よ 東の空に  あけの明星(みょうじょう) ひかり輝く」
 旅するあなたよ、闇はいつまでも続くように思えるけれども、そうではありません、ほら、みてごらんなさい、東の空に、あけの明星がひかり輝いているではありませんか。
 見張りの人の2節での答えはこうです。「旅ゆく人よ 暗いこの世に、平和を告げる 夜明けは近い」
 旅するあなたよ、今はまだこの世は暗いけれども、平和はきっとやってきますよ、夜明けは近いですよ。
 3節で旅人はふたたび尋ねます。「見張りの人よ 朝は来るのか
すべての恐れ 消えゆく朝は」
 この暗い夜に、朝は来るのですか。すべての恐れが、すべての悲しみが、すべての苦しみが、すべて消える朝が来るのですか。
 見張りの人はこれに答えます。「旅ゆく人よ 恵みの光  やがて現われ ゆくてを照らす」
 旅するあなたよ、恵みの光がかならず現れます。そして、あなたの道を照らしてくれます。
 4節で見張りの人は、最後にこう答えます。「旅ゆく人よ 世の光なる 主イエスは近い 救いは近い」
 旅するあなたよ。世の光である主イエス・キリストはすぐ近くに来ておられます。もうすぐここに来られます。救いは近いのです。もう遠くはありません。
 まあ、こういう讃美歌です。ご存じの方は、いっしょに歌ってください。はじめて聞く方も、なんとなく一緒に歌ってみてください。
 1 見張りの人よ 夜明けは まだか
   いつまで続く この闇の夜(よ)は
   旅ゆく人よ 東の空に
   あけの明星(みょうじょう) ひかり輝く

2  見張りの人よ あの星こそが
   約束された 時のしるしか
   旅ゆく人よ 暗いこの世に
平和を告げる 夜明けは近い

3 見張りの人よ 朝は来るのか
  すべての恐れ 消えゆく朝は
  旅ゆく人よ 恵みの光
  やがて現われ ゆくてを照らす

4 見張りの人よ 眠らぬ夜の
  つとめが終わる 夜明けは近い
  旅ゆく人よ 世の光なる
  主イエスは近い 救いは近い

 たしかに、主イエスは近いのです。もうすぐそこまで来ておられます。その日を、わくわく喜びながら、待ち望みましょう。
 すべてが解決する、その日が、もうすぐかならずやってくる、このことを、わたしたちの人生の最大の希望として、生き抜きましょう。

 お祈りいたします。神さま、わたしたちは、イエスさまのお生まれを心待ちにしています。イエス・キリストの再臨を心待ちにしています。戦争が終わり、病がいやされ、不安と悩みが解消され、愛する人びとと再会する日を心待ちにしています。その日がかならずやってくる、その日は遠くない、その日は近い、主イエスは近いと確信しています。このことがわたしたちの人生の最大の希望です。神さま、わたしたちの人生にこのようなすばらしい希望をお与えくださり、ほんとうにありがとうございます。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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イエスと神と旧約聖書 [使信]

使信 2023年12月10日 

「イエスと神と旧約聖書」  ヨハネ5:36-47

 おはようございます。キリスト教とは二千前にこの地上に生きたイエスという人を、このお方はキリストである、と信じる宗教です。

 キリスト、あるいは、これは、旧約聖書の言葉ではメシアと言いますが、これは、どういうお方を指すのでしょうか。キリストとは「救い主」のことです。では、キリストは私たちを何から救ってくれるのでしょうか。いろいろなことが考えられますが、キリストは、わたしたちを罪から救ってくださる、あるいは、苦しみから、不幸から、あるいは、不安から、孤独から、絶望から救ってくださる、このように言うことができると思います。

 では、キリストは、これらのことから、どのようにしてわたしたちを救ってくださるのでしょうか。これも、いろいろと考えられますが、たとえば、わたしたちが抱えている苦しい問題をすっかり解決してくださるという考えもあるでしょうし、わたしたちの願いをそのまま叶えてくださるという考えもあるでしょう。

あるいは、願いがそのまま叶うかどうかは別にして、キリストは言葉によって、神さまの御言葉によってわたしたちを深く慰めてくださるとも考えられますし、あるいは、キリストは、どんなときでもわたしたちとともにいらしてくださり、そのようにして、わたしたちを救ってくださる、という考え方もあるでしょう。

 さきほど、キリスト教はイエスをこのようなキリストであると信じる宗教であると申し上げましたが、キリスト教は同時に、このキリストをわたしたちに遣わしてくださった神さまを信じる宗教でもありましょう。つまり、キリスト教は、キリストによって、キリストを通して、あるいは、キリストと一体である神さまを信じる宗教であるとも言えるでしょう。

 では、この「信じる」とはどのようなことでしょうか。ひとつは、確信する、という意味が考えられます。これは確実である、間違いないと納得する、という意味です。神さまを信じるとは神さまは間違いなく存在すると認識することだと考えられます。

それから、信じるとは信頼することであるとも考えられます。つまり、神さまを信頼するということです。たとえば、皆さんにとって、林という牧師がここにいるということは間違いない認識でありますが、林を信頼するかどうか、これは少し違うことではないでしょうか。けれども、神さまを信じるという場合、存在を認識するだけでなく、信頼することが大事だと思われます。

あるいは、信じることには、決断する、決意するという側面があるのかもしれません。神さまを信頼して生きていくと決断する、そのような側面が、信じるということにはあるでしょう。ただ、わたしたち人間の決意、決断には弱い部分もあると思われます。ですから、もし、決意や決断が長く続いているならば、そこには、その人の決断や決意だけではなく、その人の意志の力を超えた何かがあるのではないでしょうか。

あるいは、よくわからないし、はっきりしていないけれども、なんとなく信じている、という信じ方もあると思います。わたしは、それはそれで、そういう信じ方もあるように思います。

 信じるということには、このようにいろいろなことが考えられますが、では、イエスをキリストと信じる、神さまを信頼する、それを表明するにはどうしたらよいのでしょうか。

 そんなことは、自分の心の内側で思っていればよいようにも思われますが、キリスト教ではそれを言葉で言い表すものとして、使徒信条というものが古くから、今から1800年くらい前の、二世紀後半くらいからありました。
 使徒信条とはこのようなものです。

 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。

 ここには、いわゆる「父なる神」つまり創造主を信じる、そして、神の御子イエス・キリストを信じる、さらに、聖霊を信じる、とあります。父、御子、聖霊の神さま、これを三位一体の神さまというのですが、使徒信条では、これを信じると言うのです。そして、これは、古来からのキリスト教会の信仰なのです。

 したがって、毎週の礼拝や洗礼式では、この使徒信条が唱えられてきました。けれども、この使徒信条には、イエスの誕生と十字架と復活しか書かれていなくて、イエスの言われた言葉やなされた業などが含まれていないというような理由で、これを唱えない教会も存在します。その場合は、神さまを信じることやイエスをキリストと信じることを、使徒信条とは別の言葉で、たとえば、洗礼を受ける人の個別の言葉で、表明する方法もあります。あるいは、洗礼式の時だけ使徒信条を用いる教会もあるようです。

 洗礼については、さらに考えるべきことがあり、ひとつは、幼児洗礼、赤ちゃんやこどもの洗礼を認めるかどうか、という問題です。洗礼は信仰の決断であるとすれば、赤ちゃんには信仰の決断はできないから洗礼は授けられないという考えもあります。たほう、洗礼は、人間の信仰決断である以上に、神さまの救い、神さまの恵みなのだから、イエスが幼子を抱きかかえたように、幼児も洗礼を受けられるという考え方もあります。わたしはどちらの考え方も尊重いたします。

 あるいは、洗礼を受けるには、強い信仰、キリスト教の知識、勉強が必要だという考えもあれば、誰かに洗礼を受けたいという気持ちがあればそれを教会の人が否定することはできないという考えもあるでしょう。

 さて、イエスとは何者なのでしょうか。イエスはキリスト、救い主であると、さきほど申し上げましたが、新約聖書ではどのように言っているのでしょうか。

 ヨハネによる福音書1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、「神さまの子であるキリストがイエスという人となって、わたしたちとおなじこの地上にお越しになられた」ということです。そして、それは、「父の独り子」である、つまり、イエスは神さまの独り子である、というのです。

 ルカによる福音書2:11 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ここでは、イエスは「救い主」と呼ばれています。

 マタイによる福音書26:28「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」 これは、最後の晩餐、つまり、イエスが十字架につけられる前の晩に言った言葉ですが、ここに、「罪が赦される」とあります。つまり、イエスは、わたしたちの罪を赦してくださるお方である、というのです。

 マタイによる福音書1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ここでは、イエスがインマヌエル、神は我々と共におられる、と呼ばれる、と言われています。イエスがそのように呼ばれるということは、イエスは、神さまがわたしたちとともにいてくださる、そのお姿であるということでもあるでしょう。

 このように、新約聖書では、イエスは、神さまの独り子であり、救い主であり、罪を赦すお方であり、神さまがわたしたちとともにいてくださるお姿である、と言われています。

 では、旧約聖書では、どのように言われているのでしょうか。これは、旧約聖書で、イエス・キリストのことがどのように預言されているかということでもあります。はっきりと預言されていると思える箇所も、なんとなくそうだなという個所もあります。

 創世記3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

 これは、蛇がアダムとエバを唆して神さまの言葉に背かせてしまったことに対し、神さまは蛇に向かって、敵意を置く、蛇の頭を砕くような者をやがて送り出す、と言うのです。蛇の頭を打ち砕くということは、罪を打ち砕く、罪に打ち克つということであり、これは、イエス・キリストを指している、という読み方があります。

 詩編22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。 これは、イエス・キリストが十字架の上で叫んだ言葉と同じ言葉ですね。旧約聖書の詩編のこの箇所は、ですから、イエス・キリストのことを言っているという聖書の読み方があります。

 詩編22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め 22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。 新約聖書のイエス・キリストの十字架の場面でも、イエスの服をくじ引きでわけた、というお話が出てきますので、詩編22編はそのことを預言しているという聖書の読み方があります。

 イザヤ書7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 これも、新約聖書で、マリアがイエスを身ごもった場面が思い出されますので、イザヤ書のこの言葉をインマヌエル預言と呼ぶことがあります。

 イザヤ書11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。 「エッサイの株から」とは「エッサイの子孫から」ということであり、エッサイはダビデ王の父親ですから、「エッサイの株から」とは「ダビデの子孫から」ということになります。そして、イスラエルの人びとは、ダビデの子孫から、イエスラエルを救うメシア、救い主が生まれるという希望を持っていました。

 エレミヤ書23:5 には、こうあります。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。」これもキリストを預言していると考える人びとがいます。

 イザヤ書53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 この箇所は、新約聖書のイエス・キリストの受難と十字架を預言していると信じる人びとも少なくありません。

 ミカ書5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 ここは、イエス・キリストがベツレヘムで生まれる預言であると信じるキリスト教徒がたくさんいます。

 このように、旧約聖書にも、イエス・キリストにつながる言葉がいくつも観られます。今日の聖書朗読、ヨハネによる福音書5章46節で、イエスさまが「モーセは、わたしについて書いている」と言っておられますが、モーセがこのように書いているとは、旧約聖書にはこのように書かれているという意味であり、具体的には、今、引用したようないくつかの箇所を指すのでしょう。

 今日は、これまで、新約聖書、旧約聖書が、イエスのことを、あるいは、キリストのことをどのように言っているのか見てきました。では、わたしにとって、イエス・キリストはどのようなお方かと言いますと、ひとつは、イエス・キリストは目に見えない神さまを見たお方である、ということです。

 神さまはわたしたちの目には見えません。しかし、イエス・キリストは神の国の到来を感じ、それを種や植物の成長などをたとえにお話になられました。また、イエス・キリストは空の鳥や野の花に神さまの力を感じました。このように、イエス・キリストは目に見えない神さまをわたしたちよりはるかに深く感じておられたお方、知っておられたお方であると思います。

 それから、イエス・キリストは神さまと一体になられたお方であるとも言えるでしょう。ヨハネによる福音書5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 ヨハネによる福音書10:30 わたしと父とは一つである。 ヨハネによる福音書14:9 イエスは言われた。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」

このように、イエス・キリストは神さまと一体になったお方であると思われます。それから、イエス・キリストは、神さまの愛、アガペーの愛、無償の愛をお示しになったお方であると思います。

たとえば、マタイによる福音書5章45節にこうあります。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

イエス・キリストは、悪人をも正しくない者をも愛する無償の愛、無条件の神さまの愛を示したお方だと思います。

マタイによる福音書「28:20わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これは先ほど出て来たインマヌエルと同じことです。このようにイエス・キリストは、神さまがわたしたちとともにおられることを示したお方だと思います。

それでは、今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書5章36節です。5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。

イエスが神さまから遣わされたおかたであることは、イエス・キリストがなさることの中に現れている、というのです。

37節です。5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。

わたしたち人間には神さまの声は聞こえませんし、お姿を見ることもできませんが、イエス・キリストは、神さまのお声を聴き、神さまのお姿を感じておられるのです。

39節です。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

この場合の聖書は旧約聖書のことです。永遠の命とは、永遠なる神さまにつながる命のことです。わたしたち人間と永遠なる神さまのつながりこそが、イエス・キリストである、旧約聖書はそれを証ししている、と言うのです。

今日は、このように、今日の聖書の箇所から、イエス・キリストと神さまと旧約聖書の関係をお話しいたしました。アドベントにおいて、クリスマスのイエス・キリストの誕生を待ち望むとは、このようなイエス・キリストを待ち望む、ということなのです。

お祈り:神さま、わたしたちが待ち望んでいるイエス・キリストはあなたを深く知り、あなたと深く結びついておられ、あなたと一体のお方です。わたしたちは、イエスさまをただの人間ではなく、このような神さまとの深い結びつき、そして、旧約聖書の御言葉との深いつながりの中で、お迎えすることができますように。神さま、イエス・キリストは平和の君とも呼ばれています。イエス・キリストとともに、世界に平和、心に平安が来て、わたしたちがそれを迎え入れることができますようにお導きください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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知っている、知らない [使信]

使信 2023年12月3日 

ヨハネ7:25-31  「知っている、知らない」 

 おはようございます。今週からアドベントが始まります。アドベントとは、12月25日のクリスマスまでの4週間を指します。アドベントとは「到来する」「来る」という意味ですが、何が来るのでしょうか。あるいは、アドベントのことを日本語では「待降節」と呼び、ここには待つという漢字が含まれていますが、何を待つのでしょうか。
 これは、イエス・キリストの誕生が到来する、イエス・キリストの誕生を待つ、ということでしょう。けれども、イエス・キリストは二千年前に既に誕生したお方なので、イエス・キリストの誕生日が到来する、誕生日を待つ、と言うべきでしょうか。
 キリスト教では、これに加えてもう一つの意味を見いだしてきました。それは、イエス・キリストが再び来られる、ということです。聖書によれば、イエス・キリストは十字架で死んで、しかし、復活され、天に昇られましたが、ふたたび、地上にやって来られる、という信仰があります。これを、イエス・キリストの再臨と言いますが、アドベントは、イエス・キリストが再臨する、再び来られることを待ち望む季節でもあるのです。
 イエス・キリストの再臨を語る聖書の箇所には、たとえば、テサロニケの信徒への手紙1章10節があります。そこには「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」とあります。また、コリントの信徒への手紙一16章22節にはこうあります。「マラナ・タ(主よ、来てください)」。
 かつてまぶね教会員でもあられた大貫隆さんの本を最近読みましたが、そこには、イエス・キリストの再臨を待ち望むことは、神の国、神さまの国が到来することを待ち望むことでもあった、と書かれていました。
すると、わたしたちは、聖餐式の時、「マラナタ、主よ、御国が来ますように」と歌いますが、マラナタとは、「主よ、来てください」という意味であり、イエス・キリストの再臨を祈っているのですから、「マラナタ、主よ、御国が来ますように」とは「イエス・キリストが再臨しますように、御国、神さまの国が来ますように」という意味になり、大貫さんの書いておられるように、イエス・キリストの再臨を待ち望むことは、神の国、神さまの国が到来することを待ち望むことでもあることがわかります。
 あるいは、アドベントの過ごし方には、さらには、つぎのような意味も込めることができるでしょう。たとえば、戦争の終わりが来ることを待ち望む、ということです。平和な世界の実現がやって来ることを待ち望むということです。
 あるいは、一人一人の中で、今抱えている苦しみが乗り越えられる日がやって来るのを待ち望むということです。喜びの日が到来するのを待ち望むということです。
 わたしはあるところにアドベントのことをこのように書きました。たとえ今日は世界と心が真っ暗闇でも、今週は一本、来週は二本、再来週は三本、クリスマスには四本のろうそくが灯りますように。闇の中の光、希望の主、イエス・キリストがお越しくださいますように。
 イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの再臨、神さまの国、世界の平和、わたしたちの平安、友の平安、これらの来ることを待ち望みつつ、アドベントを過ごしたいと思います。
 ところで、ここで、クイズを出したいと思います。第一問。聖書のどこにイエス・キリストの誕生日は12月25日と書いてあるでしょうか・・・そんなことは聖書のどこにも書いていません、というのが正解です。
 第二問。イエス・キリストが生まれた時、何人の博士たちがやってきたでしょうか・・・何人かはわかりません、というのが正解です。三人と思うかもしれませんが、それは、贈り物が、黄金、乳香、没薬の三つだし、クリスマスの劇では博士を三人にしているから、聖書でも三人の博士が出ているような気がするだけです。けれども、じつは、人数は書かれていません。
 わたしたちは、こういうことを知っているようで、案外、知っていないのではないでしょうか。第三問です。鎌倉幕府が開かれたのは何年でしょうか・・・1192年と思われた方が多いと思います。昭和の小中学生はそう習ったようです。わたしもそう習いました。けれども、最近では1185年と教えているそうです。
 第四問です。I can run the fastest in my class.とI can run fastest in my class. どちらが正しいでしょうか・・・後の方が正しいと思われた方もおられると思います。形容詞の最上級には定冠詞のtheをつけるが副詞の最上級にはtheをつけないと。けれども、最近は、副詞の最上級にtheをつけてもよい、と教えているそうです。

 まだクリスマスの祝会でもないのに、どうして、こんなクイズ大会をしているかと言いますと、わたしたちは、これが正しい、自分は良く知っていると思っていることが、じつは、正しくなかった、良く知っていなかった、ということがときどきあるということを示したかったのです。
 知識だけでなく、わたしたちは、考え方についても、自分は知っている、自分は正しい、としてしまうことがよくあるのではないでしょうか。
 たとえば、自分の子どものことは親である自分がいちばんよくわかっている、こうするのがいちばんよいとよくわかっている、とわたしたちは思いがちですが、じつは、そうではなかった、そうでないやり方、そうでない考え方もありえた、ということがあるのではないでしょうか。
 人の言おうとすること、人の経験したこと、人のことをわたしたちはよく知っているつもりになってしまうことがよくありますが、わたしたちはその人が本当に言いたいことや経験したこと、その人の気持ちがわかっているのでしょうか。
 キリスト教の中にも様々な考え方があります。さきほどの大貫隆先生、そして、荒井献先生も書いておられますが、今から二千年前に誕生したキリスト教会には、最初のころから様々な考え方やグループがあったことは、聖書やキリスト教の歴史を研究すれば、明らかなことのようです。
 それから二千年経った現在のキリスト教の中には、さらに様々な教会、様々な信仰、様々な考え方があるのは、当然でしょう。ですから、わたしたちは、一つの考えをもって、それが唯一の正解とすべきではないでしょう。一つの考え方を知っていることで、唯一の正しい答えを知っているとすべきではないでしょう。
 たとえば、洗礼の仕方には、頭に水をかけるだけのやり方と、全身を水の中に浸らせるやり方がありますが、どちらか一つだけが正しいわけではなさそうです。というのは、どちらの洗礼の仕方も、すでに、紀元1世紀の教会、今は21世紀ですから、20世紀ほど前の教会、つまり、生まれて間もない教会には、どちらの洗礼の仕方もあったようだと、その時代の文書から推測されています。
 また、救いとは何か、ということについても、善い行いをしないと救われない、とヤコブの手紙は言っているように思われますが、パウロは、信仰によって人は救われる、と言いつつ、神さまの一方的な恵みによって人は救われる、とも言っています。つまり、救いについても、いくつもの考え方があるのです。
 あるいは、聖書の読み方についても、たとえば、創世記1章の世界の創造物語を文字通りその通り世界は6日間で創造されたと受け取る信仰もあれば、これは神話でありこの通り世界が6日間で創造されたとは考えないけれども神さまが世界と自分を創造してくださったことは謙虚に信じるという信仰もあります。
 わたしたちは、神さまについて、完全には知りえないのです。知りえない、という意味は、まず、量的な意味で、神さまについての情報を全部知ってしまうことは不可能です。
たとえば、わたしは何らかの意味で神さまや聖書について書かれている本を一年間で50冊くらい読み、そんなことを三十年くらいやっていますが、そんな程度のことで、神さまを知っているなどとはまったく言えません。たとえ、一年で1000冊の本を読んでもおなじことです。
 もうひとつは、深さの意味でも、わたしたちは神さまのことを知っているなどとはとうてい言えません。わたしたちは、神さまを知りえないのです。ただひとつ知っていることは、神さまはわたしたちの把握、わたしたちの理解をはるかに超えている、ということだけです。
 たとえば、宇宙はどこまで続いているのでしょうか。宇宙がわたしたちが考えるような空間であるならば、宇宙は無限に広がっているとしか考えられません。
もし、宇宙が箱や球のような形をした有限なもので、ここからここまでが宇宙です、というなら、その箱、その球の外は何なのでしょうか。箱の外にも空間があるなら、そこも宇宙ではないでしょうか。どこまでが宇宙と決めたとしても、その外が考えられ、さらにその外が考えられるのなら、宇宙は、把握しようがありません。
 あるいは、宇宙はわたしたちが考える空間概念とはまったく違うのなら、それは、それで、やはり、わたしたちは宇宙を把握しようがありません。わたしたちの思考回路、わたしたちの考えには、線と平面と立体しかないのですから、宇宙が線や平面や立体以外のものであるなら、わたしたちには、把握しようがないのです。
 けれども、ぎゃくに、把握できないこと、知りえないことが宇宙の深みであり、そのような宇宙にわたしたちは畏敬の念を抱くのです。
 神さまについても、いや、神さまであるならば、なおさら、わたしたちの知りえない、わたしたちのつかみえない深さがあり、わたしたちはどこまでも深い畏敬の念を抱くしかないのではないでしょうか。
 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書7章27節です。7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
 人々は、イエス・キリストについて、こう言っています。「わたしたちはこの人の出身地を知っている。把握している。わたしたちが把握できる程度の人なら、救い主ではない。ただの人だ。イエス・キリストが救い主、メシアであるならば、私たちの把握を超えているはずだ」・・・この認識はある意味、正しいと思われます。けれども、イエス・キリストはこう言われます。
 28節です。7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。
 人々はイエス・キリストがナザレの出身であることをたしかに知っている、けれども、それだけのことで、イエス・キリストのことを、メシアのことを知っている、と思ってしまっているのではないか、という皮肉、あるいは、叱責が、このイエス・キリストの言葉には含まれているように思われます。
 今の28節のイエスさまの言葉には続きがあります。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」。
 あなたたちはわたしがナザレ出身であることは知っていても、わたしが神さまから遣わされていることを知らないではないか。そして、あなたたちはその神さまのことも知らないではないか、とイエス・キリストは言われるのです。
 29節です。7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。
 「わたしはその方を知っている」とあります。つまり、イエス・キリストは神さまを知っている、と言われます。「知っている」とは「深い交わりがある」ということです。イエス・キリストは神さまと深い交わりがあるのです。イエス・キリストは神さまと一体と言ってよいほどの深い交わりがあるのです。
 神さまを知っているのは、イエス・キリストだけです。はんたいに、イエス・キリストを知っているのは神さまだけです。
 わたしたちは、神さまも、イエス・キリストも、知っているようで、知っていないのです。けれども、知っていないということによってこそ、そこには、神さまとイエス・キリストへの畏れの念、畏怖の念が生まれ、敬意が生まれ、さらには、感謝があり、賛美があるのです。わたしたちは、神さまも、イエス・キリストもよく知らない、ということを知ることにこそ、信仰があるのです。
 アドベントにおいてわたしたちが待ち望み、クリスマスにおいてわたしたちのところにお越しくださるお方は、そして、その出来事は、わたしたちがこれまでじつは知らなかったまったく新しい何かなのです。そして、わたしたちはそのまったく新しい何かをお迎えするのです。それが何かをすでに知っていれば、わたしたちはその新しさを受け取ることはできないのです。
 今、わたしたちの知らないお方がお越しになられます。わたしたちの知らない、まったく新しい、すばらしいことが起ころうとしています。
 けれども、そのお方は、わたしたちのことを良く知っていてくださいます。そのお方は、わたしたちを良く知っていてくださり、深く交わってくださいます。そのお方は、まことの意味で、わたしたちを受け入れ、わたしたちを愛してくださるお方なのです。
 祈り:神さま、わたしたちは、もう知っていると思ってしまえば、新しいことを、新しいことを起こしてくださるあなたをお迎えすることができません。もう知っているというわたしたちの傲慢を打ち砕いてください。わたしたちの知らないお方、知らないすばらしい恵みをお迎えする謙虚さをお与えください。
 わたしたちは自分は知っている、自分は正しい、相手は知らない、相手は間違っていると決めつけて、相手を攻撃します。どうぞ、わたしたち人間のこの思いを打ち砕いて、争いを終わらせてください。まだ知らない平和を迎える勇気を与えてください。わたしたちは争いは知っていても平和を知らないのです。わたしたちの知らない、まったく新しい出来事である平和を到来させてください。わたしたちはそれを待ち望んでいます。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
 


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