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「信じられなくても、願い求めつづけることが大切です」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(94)

「信じられなくても、願い求めつづけることが大切です」

 子どもが、保育園の時、リレーの最終走者に選ばれました。「おまえが一番足が速いのか」と訊いたら、「先生は、最後まであきらめない人、最後まで走り続ける人にアンカーを任せた、と言っていたよ」という返事でした。

 ある人は高校生の時から自分の部屋に引きこもるようになりました。本人も親も、どうにかしたい、状況を打破したいと、思い悩み、いろいろ努力し、うまくいかなかったり、少しうまく行ったりで、二十年が過ぎました。いつか、いつか、と願いつつ、二十年。これがいつまで続くのか、途方に暮れてしまいました。けれども、今少しずつ、外に出たり、働いたり、人と交わったりするようになり始めたのです。

 病気、仕事、自分の人生。何年も何十年も良くならないように、いや、悪くなっているようにさえ思えることもありますが、きっとどうにかなる、と人生を、いや、自分という存在の宇宙的な土台のようなものを、信頼することが大事なのではないでしょうか。

 聖書によれば、ある少年が、口が利けない、倒れてしまう、口から泡を出す、歯ぎしりをする、体をこわばらせる、という症状に、子どもの時からずっと悩まされてきました。

 父親はイエスに頼みました。「できれば、わたしたちを助けてください」。イエスは答えました。「できれば、などと言ってはならない。かならずできる、と信じるのだ」。

 父親は答えました。「信じます。正直、信じられませんが、助けてください」。

 きっとこうなると信じられれば、それはとてもすばらしいことですが、そんなふうには信じられない場合はどうしたらよいのでしょうか。

 そのときは、「信じられませんが、助けてください」と祈るのです。信じられなくても、願い求め続けることが大切です。

 人生を信頼できる人間にわたしを造り替えてください、また、わたしは人生を十分には信頼していませんが、わたしを支えてください、と祈り求めるように、イエスは促しているのではないでしょうか。

(マルコ9:14-27)
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「新しいことを知ったら、それにふさわしい新しい人生が始まります」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(93)

「新しいことを知ったら、それにふさわしい新しい人生が始まります」

 演劇のおもしろさに気付いたなら、わたしたちは、自分の小さな部屋を出て、劇場に行かずにはおられません。シネマの味わいに触れたなら、家を出て、映画館に行かないわけには行きません。

 山の魅力を覚えたなら、わたしたちは、町を出て、登山口へ向かいます。水平線上の夕陽を美しむようになったなら、午後は海沿いの道を辿ります。

 新しい世界を知ったなら、わたしたちはもはや今まで生きてきた古い世界に留まることはできず、その外に出て、新地を歩み始めます。新しい精神には、新しい場所がふさわしいのです。

 新約聖書によりますと、イエスは目の見えなかった人を見えるように癒しました。そして、その村を出て行くようにと促したのです。

 見えるようになることは、目に見えない神を感じる、知ることにつながります。そして、神を知ったなら、これまでの古い生活から新しい生活に歩み出すようにと、イエスは押し出すのです。

 神を知ってからの、いや、神と出会ってからの、あるいは、おぼろげながら神を感じるようになってからの新しい生活とはどのような生活のことでしょうか。

 それは、不安な自分の人生の根本の支えを、神にするということです。不確かな人生を、神を信頼しながら生きて行こうとすることです。

 わたしたちは、お金、人間関係、立場、健康、計画など、目に見える確かなものに頼りがちです。けれども、裏返せば、それらの欠乏で、いつも心を煩わせているのです。

 けれども、そのような古い生き方から脱出して、神を信頼して生きる新しい生き方、どうなるかはわからないけれども神がきっと何とかしてくれる、道を切り開いてくれると信頼して生きる新しい生き方に入るように、イエスは人びとを導いています。

 見えるようになって、これまでの村を出る。それは、わたしたちが神を感じるようになって、目に見える安心を何とか手に入れようとしながらもそうできない古い生活から脱出することの比喩でもあるのではないでしょうか。

(マルコ8:22-26)

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「悪いものも良いものも膨らみますが、良いものが悪いものを覆い尽くします」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(92)

「悪いものも良いものも膨らみますが、良いものが悪いものを覆い尽くします」

 6月23日。沖縄戦没者追悼式で、少女が祈るように読み上げた詩には、「戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無い」という一節が刻み込まれていました。他方、その式に参列していた安倍首相とその政権は、沖縄・辺野古に米軍基地を新設し、あらたな戦力配備を許そうとしています。

 少女の言葉は、日本の戦争によって四分の一の住民が殺された沖縄の人びとの祈りが終戦後連綿とつづいてきたこと、そして、地下茎のように深く広がってきたことの証しではないでしょうか。73年前に島を包んだ祈りは、今日に至るまで、その土に浸み込み、その空気を染めつづけてきたのです。

 他方、安倍政権への支持も、拡大してきました。ヤマトでは、沖縄の米軍基地反対の声は高まるどころか、反対の声への反対が、誹謗中傷、ヘイトスピーチレベルに達しています。選挙でも、安倍政権に加担する議席数の大幅増大を許してしまっています。沖縄でも、辺野古新基地絶対反対を訴える政治家が落選しています。すくなくとも、表面的には、「あきらめ」が拡大しているように見えないことはありません。

 戦力放棄の声も、戦力拡大のスローガンも、どちらも、広がっているように思われます。

 新約聖書によりますと、イエスは、偽善者や暴君の「パン種」に気をつけろ、と弟子たちに訴えました。イースト菌があれば、偽善や暴力、暴政は膨らんでしまう、という意味でしょう。

 他方、イエス自身は、数個のパンを数千人の人びととわかちあった、という伝説も記されています。イエスから、偽善や暴力、暴政と正反対のもの、つまり、誠実と非暴力、平和、愛が、人びとの間に広まっていったことを象徴する話のように思えます。

 悪いものも良いものも増殖します。地表では争いや憎しみが広がっていますが、地下では、そして、宙では、目には見えないけれども、平和と愛も、膨らんでいます。後者が前者にまさり、覆い尽くすことを信じたいと思います。

(マルコ8:14-21)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(91) 「向き直らなければならないことがあります」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(91)

「向き直らなければならないことがあります」

 小学校低学年だったでしょうか。子どものころ、小倉で原爆展が開催されました。親に連れて行かれたのだと思います。親との外出ということで、最初は浮かれていましたが、すぐに、見続けるのが恐くなりました。焼けた街、建物、そして、人。高熱のせいで、靴が足に焼き付いてしまった子ども。最後まで見つづけた記憶はありません。けれども、あとから教えられたことかも知れませんが、見なければならない、という思いが刻み込まれています。

 戦争、虐殺、テロ。暴力で殺された人びと。地震、津波、洪水、土砂、激流。自然災害で死んだ人々。そうした人びとの存在をわたしたちはメディアから知らされ、しばらくは、神妙な面持ちになりますが、それはいつまで続くでしょうか。遠い地域での出来事に、本当に痛みを感じているでしょうか。人びとの死、殺戮が数字にされ、それが並んで慣れっこになり、もういいやと心を向けなくなっていないでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスの同時代、ヨハネという人がいました。彼は、人びとの心が神から離れていることを憂い、神へと向き直ることを訴えました。同時に、持てるものを貧しい人とわかちあうこと、不正に金をとりたてないこと、人を脅したりゆすったりしないことも求めましたが、これら対人関係についての教えは、神への回心と不可分のものでした。

 ヨハネは、やがて、王の不正な結婚を批判します。その結果、牢に入れられます。王の誕生日の宴において、その妻の娘が王の前で舞い、褒美に欲しいものを何でも与えると言われます。娘は「ヨハネの首を」と求めます。ヨハネの首は獄中ではねられ、盆に載せて、宴の場に運ばれます。

 聞くだけで怖くなります。場面を想像するだけで恐ろしくなります。

 けれども、わたしたちはここから逃げてはならないのではないでしょうか。聖書はそのことを教えているのではないでしょうか。

 この世界は、神に造られた美しい場所であるのに、わたしたち人間はこのような残酷なことを繰り返しているのです。そのことを知りたくなくても、考えたくなくても、そこから逃げないことによってしか、その痛みを体に刻み込むことによってしか、わたしたちはこれを克服することができないのではないでしょうか。

 いやもしかしたら、他にも道があるかも知れません。これほど苦しくない道があるかも知れません。けれども、それは、すくなくとも、残酷な出来事をまったくなかったことにしてしまうことではないでしょう。

 (マルコ6:14-29)

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「たいしたことがないと思えば、たいしたことは学べません。何かあると思えば、何かが変わります」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(90)

「たいしたことがないと思えば、たいしたことは学べません。何かあると思えば、何かが変わります」

 いつも同じことの繰り返しのように思える高齢者の話でも、良く聞いてみると、じつは、毎回違うことを言っているはずだ、とカウンセリングの講習会で習いました。たしかに、同じ話だからつまらないと決め込まないで、あらたな気持ちで聞いてみると、いままで気づかなかったメッセージを受け取ることができるかも知れません。

 子どもたちの話も、子どもの言うことだからとか、たいしたことないだろうとかいった先入観を横に置いて聞こうとするなら、聞くべきことがあるのではないでしょうか。慣れ親しんで来たパートナーについても同様のことが言えると思います。

 どんなにつまらないと思える人の話でも、寛い心で聞いてみれば、これはよいなと思うことがあるのではないでしょうか。ある友人は、本を読んだ後の感想文を五百以上、インターネットに記していますが、けなすことはほとんどなく、どんな本にも良い点、学ぶべき点を見つけようと心掛けているそうです。

 新約聖書によれば、イエスはあちこちの村や町で人びとに話をしたり病人を癒したりして、評判をとっていたようです。ところが、故郷の町では、ほんのわずかの人しか癒すことができませんでした。

 どうしてでしょうか。たいていの人は、イエスのことを、たいした人物、耳を傾けるべき人物とは思いませんでした。なぜなら、子どものときから本人のことも家族のこともよく知っていたからです。いや、良く知っている、たいしたことはない、と思い込んでいたからです。

 病気が癒されるとはどういうことでしょうか。変化が起こることです。けれども、つまらない相手だと思っていたら、その人の言葉や行動によって変えられることはないでしょう。

 ぎゃくに、人びとがつまらないものと見なしたにも拘わらず、イエスの言動に、新鮮な思いで臨んだ、少数の人には、大きな変化が起こったのです。

 知っていると思ってしまえば、学ぶことはできません。知らないと思えば、たくさん学べます。たいしたことないと思えば、たいしたことは学べません。この人の言葉には何かあると敬意を払えば、何かを得ることができるのです。

(マタイ6:1-6)

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「体の中に溜まっていた重い澱みが、イエスの言葉で、ざあーっと流れ出て行きました」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(89)

「体の中に溜まっていた重い澱みが、イエスの言葉で、ざあーっと流れ出て行きました」

 いつも子どもに抑え付けるような言い方をする親がいます。部下に有無を言わせない上司、妻に逆らわせない夫もいます。相手の言うことを聞かず、手も足も顎も縛り、身動きをさせず、何も言わせず、ただ自分の言いたいことだけを言い、したいことだけをするような人がいます。その人の前では、こちらは、まるで鋼鉄の鎖を巻きつけられているかのようです。

 そんな目に遭えば、骨や筋を砕いてでも鎖を引きちぎりたくなりますし、ギャーと叫びたくなりますし、あるいは、自分で自分をぼこぼこ殴りつけたくもなります。まわりの人は、乱暴な人間だと思いますが、本人は苦しくて仕方がないのです。本人が一番苦しいのです。

 外から受けた暴力や暴言は過ぎ去れば終わりかと言うと、そうではありません。その暴虐は、受けた人の、今度は、内側に深く入り込みます。心や頭、感情や記憶を乗っ取り、内部からぎしぎしと重圧を加え、その人を苦しめます。

 ところが、ある時、あることによって、あるいは、あることをきっかけにして、その人の内圧を異常に高めていた、苦しい何ものかが、すーっと出て行くことがないでしょうか。人からやさしい言葉をかけられたとか、自分の発したものが誰かに届いていたとか、自分が無条件に生かされていることを教えてくれる美しい言葉に出会ったとか。何か良いものに出会うことで、苦しい何かがさっと出て行ってくれることがないでしょうか。

 聖書によれば、ある人が、悪霊に取りつかれているとされ、町から追い出され、墓場に住まわされていました。人びとはその人を足枷や鎖で縛りましたが、その人は手足の筋肉に怒りを漲らせ、それを引きちぎりました。その手足は、さらには自らの心身を激しく打ちのめしました。自分で自分を傷つけながら、胃袋の底から絶叫し続けました。

 イエスはその人を見て、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言いました。すると、まあ、なんてことでしょう。その人の体中に溜まっていたものが、どどどどっと流れ出て行ったのです。

 その人は、いまや、鎖ではなく服を着て、吼え猛るのではなく静かにすわっています。

 じっさいには、このようにドラマチックなものではなかったとしても、イエスとの出会いにより、自分の中から重苦しい澱みが出て行ってくれ、心にあたらしい清流を迎えることができたと感じた人は少なくなったのではないでしょうか。

 そして、それは、聖書の言葉や物語に触れる人にも、いちどならず、繰り返されていることなのです。 

(マルコ5:1-20)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(88) 「イエスが吹き込んでくれるもの」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(88)

「イエスが吹き込んでくれるもの」

 毎日毎日が貧しくても厳しくても、美空ひばりの歌が流れていれば、疲れた体を明日も何とか起き上がらせよう、という気持ちになった時代があると聞いています。落胆しかないようなときでも、ロッキーやスター・ウォーズのテーマを聞けば、元気や希望が湧いてくることがあります。

 不安や苦しみ、悔しさや憎しみ、孤独や寂しさ、絶望や虚しさ。こうしたもので心が一杯になってしまったときでも、赤ちゃんの笑顔を見かけたり、思いやりのある言葉をかけられたり、少しだけうれしいことがあったり、親しい友と睦まじいときをすごしたりすると、しばらくのあいだであっても、心の中身があたたかいものに入れ替わることがあります。

 ストレスや不満、悲しみ、痛みが溜っているときでも、映画やドラマや芝居でいいセリフを聞いたり、涙を流したり、琴線に触れる弦楽器の旋律を耳にしたり、魂をふるわせてくれるような詩人の言葉が聞こえてきたり、高く美しく悲しく柔和な友の心と交わったりすると、澱んでいたものを押し出すかのように、安心や満足、喜び、癒しが流れ込んでくることがあります。

 聖書によれば、イエスは、病気の人びとを癒し、悪霊に取りつかれている人びとからそれを追い出した、とあります。二千年の昔、病気や障がい、あるいは、もっと広い範囲の苦しみも、それは悪霊に取りつかれているせいだ、と考えられていたという説があります。ならば、病気を癒すことと悪霊を追い出すことは同じことだったのかもしれません。それは、良い「気」、「元気」を吹き込み「病気」を追い出すことであり、「聖(なる)霊」を吹き込み、「悪(い)霊」を追い出すことだったのかもしれません。

 人びとはイエスからインスピレーションを受けました。インスピレーションとは、何かを吹き込まれることです。誰かからやる気やヒントや発想をもらうことを「その人からインスピレーションを受ける」と言いますが、文字通り、エネルギーやアイディアを吹き込まれるのです。

 イエスは、倒れている人びと、弱っている人びと、打ちのめされている人びとのそばまで行き、手を取り、体を起こしました。イエス自身はこの世界には目に見えないけれども神の息吹が満ちていると強く感じ深く信じていましたから、人びとが、イエスから神の息吹を吹き込んでもらった、そしたら、悪いものが出て行ってくれた、という筋書き、いや、舞台を生きることになっても、不思議はないと思うのです。

(マルコ1:29-39)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(87) 「わたしたちの親子関係は、神さまとわたしたちの関係に良く似ています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(87)

「わたしたちの親子関係は、神さまとわたしたちの関係に良く似ています」

 「そして父になる」という映画がありました。出生時に病院のミスで、子どもが他の家の子どもと取り違えになってしまいます。小学校入学時にそれが発覚し、そこから、登場人物たちは、親子とは何か、という大きな問いを抱え、苦しんだり、喜んだりすることになります。

 わたしたちは子どもが生まれた時点で、あるいは、子どもを迎えた時点で、親になります。けれども、それだけで、本当に親子関係ができたと言えるでしょうか。親子の深い絆、信頼関係が、ともに過ごす経験の積み重ねによって築かれるのであれば、親子になるには時間がかかるのかも知れません。

 しかし、もう一度考え直すならば、出発点から、親は子どもを育てようとしますし、乳児の場合そこにいる大人を最初から(無意識でも)親として位置づけているのではないでしょうか。つまり、親子関係は最初からあるとも言えますし、築き上げていくものだとも言えるような気がします。

 聖書では、神は「父」と呼ばれます。人間は神によって創られたからです。神からいのちを与えられたからです。ですから、生まれた時点で、神とわたしたちの間には親子関係があるのです。

 ところが、聖書をめくって行きますと、神の愛、神の心を受け入れる者は神の子とされる、というような表現も出てきます。わたしたちは生まれたときから神と親子関係であったはずなのに、あらためて、こういう形で神の子とされるとはどういうことなのでしょうか。

 わたしは、「神さま、いのちをお与えくださり、今日まで育んてくださり、まことにありがとうございます」と祈ります。神と親子であるという事態には、いくつもの場面があるのでしょう。この世に生を受けるという場面があります。育てられるとはとても長いプロセスですから、さらにいくつもの場面があるでしょう。病気を乗り越えるというような場面、学校に入学する、卒業するという場面、人と出会う、別れるという場面もあるでしょう。

 それに加えて、神の愛をはっきりと感じる場面、神の心に触れるような場面
神を信頼できると痛感する場面もあるでしょう。

 人間の親子関係同様に、神との親子関係にもいくつもの場面があります。いや、人間の親子関係の方が、じつは、神とのそれを映し出しているのかも知れません。

(ローマ8:14-16)

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「神は個別面談をしてくださいます」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(86)

「神は個別面談をしてくださいます」

 個別指導塾というものがあります。教師一人に対し生徒が多数では、すべての子にしっかりと伝え、その情報や方法を身につけさせることは難しいからです。その子がどんなことは理解し、どんなことは理解できていないのか、どんな技術は身につけ、どんな技術は身につけていないのか、、個別指導でなければわからない、ということでしょう。

 たしかに、ひとりひとりのことは、ひとりひとりに丁寧に向かい合わなければわかりません。医者は、一人一人を診察し、どういう症状なのか観察し、どういう治療や処方がよいのか判断し、一人一人に投薬をしたり、手当てをしたりします。

 相談事も同じです。カウンセリングの原則は、一対一です。カウンセラーはクライアント(相談者)の話をていねいに聴きます。そして、その気持ちに共感しようとします。そのような姿勢が相手の心に信頼や安心、充実、喜びをもたらすのです。

 聖書によりますと、イエスは十字架の死、そして、復活ののち、天に帰ります。それからしばらくしたある日、弟子たちがひとつところに集まっていると、轟音が天から鳴り響き、炎のような、あるいは、舌のようなかたちをしたものが、弟子たちひとりひとりの上にとどまります。

 そして、弟子たちは各々外国語を話し始めます。そこには、いくつもの地域から来て、さまざまな母語の人びとがいましたが、皆、自分の故郷の言葉が語られているのを耳にするのです。つまり、そこにいた人びとは、皆、自分の母語で、弟子たちの語る、神の話を聞くことができたのです。

 このマルチリンガル、多言語の話の奥には、神はひとりひとりにわかる言葉で語りかける、神は人間に十把一絡げにではなく個別に向き合ってくれるというメッセージがあるのではないでしょうか。

 クリスチャンの中にもいろいろな人がいます。信仰の仕方も、信じていることも、さまざまです。聖書の解釈も多様です。教派もたくさんありますし、同じ教派でもひとつひとつの教会には個性があります。また、同じ教会員でも、ひとりひとり違います。

好きな讃美歌も、好きな聖書の箇所も、信仰や洗礼にいたる道をひとつではありません。信仰における悩みや祈りもひとそれぞれです。ですが、これは、じつは、神さまがわたしたちひとりひとりに個別に語りかけてくれているしるしではないでしょうか。

 他の誰もが知らない、他の誰もがわかってくれない、わたしたちの特別の悩みを、神さまだけは知っていてくださるのです。

(使徒言行録2:1-11)

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「自分の源とつながっていれば、わたしたちは安心できます」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(85)

「自分の源とつながっていれば、わたしたちは安心できます」

 「日本人のルーツを探る」といった類いのテレビ番組や書籍は、ごまんとあるのではないでしょうか。自分の先祖にはどんな人がいたのか、どこにいたのか。自分の学校や会社は、そもそもどのようにしてできたのか。このお寺や神社はいつごろからあるのか。わたしたちは、そのような源流に関心を持ちます。

 人間のことだけではありません。桜の原産地はどこなのか。うちの猫の祖先はどんな動物なのか。この河はどこから流れてくるのか。あの鳥はどこから飛んでくるのか。羊羹はどこに由来するのか。わたしたちはルーツにロマンや神秘を感じないではいられません。

 子どもたちは家の外では親の手を握りたがります。砂場遊びをしているときも、親の姿がそこにあると安心します。自分の源につながっていると安心できるのでしょうか。

 大人になっても、大学や職場から自分の部屋に戻って来るとくつろげます。夜遅くなると、朝出てきたところに帰りたくなります。朝這い出た布団の中にもう一度もぐりたくなります。年を重ねれば、若い日に出てきた故郷の光景が恋しくなります

 わたしたちは自分の出てきたところを慕い求めないではいられません。わたしたちはどこからここにやってきたのでしょうか。そこにはどこから辿り着いたのでしょうか。その前はどうだったのでしょうか。

 聖書は、わたしたちの源泉は神だと言います。わたしたちの存在も、この世界も神によって創造された、と語っています。

 イエスは、自分は神のもとからやってきた、自分にいのちを与えたのは神だと強く意識し、神を父と呼んでいました。イエスは、その神と自分のつながりを強く感じていました。神のいのち、神の愛が自分の中に満ちあふれていることを深く自覚していました。

 源である神との密接なつながりを「永遠の命」と呼び、それを弟子たちや人びとに実感させようとしていました。さらには、わたしたちがイエスと親しく結ばれることも、イエスにとっては、「永遠の命」だったのです。

 源泉と永遠では方向が反対のように思えますが、源泉が文字どおり泉のようにつねに絶えることなく湧き出ているものであれば、じつは、永遠と源泉は同義語なのかも知れません。

(ヨハネ17:1-13)

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