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「自分の源とつながっていれば、わたしたちは安心できます」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(85)

「自分の源とつながっていれば、わたしたちは安心できます」

 「日本人のルーツを探る」といった類いのテレビ番組や書籍は、ごまんとあるのではないでしょうか。自分の先祖にはどんな人がいたのか、どこにいたのか。自分の学校や会社は、そもそもどのようにしてできたのか。このお寺や神社はいつごろからあるのか。わたしたちは、そのような源流に関心を持ちます。

 人間のことだけではありません。桜の原産地はどこなのか。うちの猫の祖先はどんな動物なのか。この河はどこから流れてくるのか。あの鳥はどこから飛んでくるのか。羊羹はどこに由来するのか。わたしたちはルーツにロマンや神秘を感じないではいられません。

 子どもたちは家の外では親の手を握りたがります。砂場遊びをしているときも、親の姿がそこにあると安心します。自分の源につながっていると安心できるのでしょうか。

 大人になっても、大学や職場から自分の部屋に戻って来るとくつろげます。夜遅くなると、朝出てきたところに帰りたくなります。朝這い出た布団の中にもう一度もぐりたくなります。年を重ねれば、若い日に出てきた故郷の光景が恋しくなります

 わたしたちは自分の出てきたところを慕い求めないではいられません。わたしたちはどこからここにやってきたのでしょうか。そこにはどこから辿り着いたのでしょうか。その前はどうだったのでしょうか。

 聖書は、わたしたちの源泉は神だと言います。わたしたちの存在も、この世界も神によって創造された、と語っています。

 イエスは、自分は神のもとからやってきた、自分にいのちを与えたのは神だと強く意識し、神を父と呼んでいました。イエスは、その神と自分のつながりを強く感じていました。神のいのち、神の愛が自分の中に満ちあふれていることを深く自覚していました。

 源である神との密接なつながりを「永遠の命」と呼び、それを弟子たちや人びとに実感させようとしていました。さらには、わたしたちがイエスと親しく結ばれることも、イエスにとっては、「永遠の命」だったのです。

 源泉と永遠では方向が反対のように思えますが、源泉が文字どおり泉のようにつねに絶えることなく湧き出ているものであれば、じつは、永遠と源泉は同義語なのかも知れません。

(ヨハネ17:1-13)

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