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世界の片隅に [礼拝説教(使信)動画]

2021年10月3日 「世界の片隅に」

https://youtu.be/oEuQfLo51C4
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2021年10月3日 [今週の聖書の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう』」(マタイ21:31)

 当時のユダヤ社会の政治や宗教において力を持っていた人々に向けて、イエスはこの言葉を語りました。その人々は、自分たちこそがまっさきに神の恩恵を受けるべき者であり、徴税人や娼婦などは神から祝福されるはずがない、と考えていたのです。
 徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となり同胞であるユダヤ人からときには不正に税を取り立てていました。それゆに、徴税人は嫌われ、娼婦とともにその社会から差別を受けていたのです。しかし、イエスはこの人びとこそがまっさきに神の愛を受けると言いました。
 なぜでしょうか。ひとつは、社会を支配する政治や宗教の権力者が傲慢であり、人びとを踏みにじっていることを明らかにするためではないでしょうか。もうひとつは、それと対照的に、徴税人や娼婦たちは、苦しみ、悲しみ、痛みを抱えていて、自分の弱さを知るゆえに、神に救いを求めていることを、イエスは言い表そうとしたのではないでしょうか。弱さゆえに神に救いを求める、というよりも、苦しみ悲しみ痛みを抱えていること自体がすでに神の方を見ていることなのではないでしょうか。
 人間を見てイエスの言葉を考えればこういうことになるでしょう。しかし、イエスは、人間だけでなく、神を見ていました。人間の神へのまなざしだけでなく、神の人間へのまなざしをも、イエスは見ていました。
 イエスが見た神は、かつて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知った神でした。その神は、イエスの前で、徴税人や娼婦にも、さらには、わたしたちにも、同じまなざしを向けてくださるのです。

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世界の片隅に [使信]

2021年10月3日 マタイ21:28-32 「世界の片隅に」

おはようございます。今日は世界聖餐日です。まぶね教会も今日聖餐式を行いますが、世界中の教会でも行われます。聖餐式にはどのような意味があるのでしょうか。

三つの意味があると考えられます。ひとつは、イエスが十字架につけられる直前の、最後の晩餐を記念するということです。聖餐式ではこのように唱えられます。

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」。

この聖餐式の言葉は、聖書によれば、イエスが最後の晩餐で言った言葉でもあります。つまり、聖餐式には、イエスの最後の晩餐を記念するという意味があります。

二番目に、何千人もの人びとがお腹を空かせていたとき、イエスはそこにあったわずかのパンと魚を皆でわかちあいましたが、このことも聖餐式につながっているように、わたしは感じています。つまり、聖餐式は、わたしたちがイエスを中心にパンを、いのちをわかちあうことを象徴しているのではないでしょうか。

三番目に、これも、食事に関することですが、イエスは、徴税人や罪人と呼ばれる人びとと食卓をともにしました。当時のユダヤの社会では、ユダヤ人でありながらローマ帝国の手先になって税金を集める徴税人や、律法を守っていない罪人と見なされる人びとと一緒に食事をする人はほとんどいなかったと思われます。しかし、イエスは、あえてそうしたのです。それは、神は誰をも斥けない、というイエスの信仰に基づくものであったのではないでしょうか。

まぶね教会の聖餐式では、「聖餐は、イエスがかつてわけへだてなくすべての人々とパンを分かち合われたことを記念し、また、十字架にかかる前の晩に弟子たちとともに最後の晩餐を分かち合われたことを記念し」と唱えられますが、この「イエスがわけへだてなくすべての人々とパンを分かち合われた」という言葉には、今申し上げた、イエスが何千人もの人びととパンをわかちあったことと、イエスが世の中で斥けられていた人びとと食卓をともにしたことが言い表されているのではないでしょうか。

聖餐式の三つの意味を申し上げましたが、いずれにせよ、聖餐式は、イエスの食卓につらなるものであると言えるでしょう。

ところで今日は、世界宣教の日でもあります。世界宣教とはどういうことでしょうか。これも、三つのことが考えられます。

ひとつは、世界中に、イエスの福音、神の福音を宣べ伝えるということです。マタイによる福音書の最後の方で、イエスは弟子たちにこう言っています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。

つまり、世界中の人びとをイエスに従う者とするように招き、洗礼を授け、イエスの教えを伝えなさい、ということです。

 けれども、イエスは、ルカによる福音書の、宴会に人が招かれるたとえ話ではこうも言っています。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
 
このたとえ話で宴会は神の国の食卓を現わしています。つまり、広場や路地に座り込んでいる貧しい人びと、体の不自由な人びと、すなわち、世界の片隅にうずくまっている人びとと、神の福音を、そして、神の食卓をわかちあう、そういう宣教をイエスは言っているのではないでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。今日の聖書もイエスのたとえ話です。その中で、兄は、ぶどう園で働くように言われて、最初は「いやです」と答えましたが、あとで考え直して、ぶどう園に出かけます。反対に、弟は、最初は「承知しました」と答えますが、じっさいにはぶどう園には行きませんでした。

口では「はい」と言うが実行しない。口では「いいえ」と言うが実行する。皆さんはどちらのタイプでしょうか。さらには、口で「いいえ」と言い実行しない、口で「はい」と言い実行する、というタイプも考えられますが、皆さんはいかがでしょうか。

「いやです」と言ったけれども実行した兄は、じつは、徴税人や娼婦のことだ、とイエスは解き明かします。そして、「はい」と言ったけれども実行しなかった弟は、祭司長や民の長老、つまり宗教や社会の権力者たちのことなのです。

宗教権力者たちは、洗礼者ヨハネ、義の道を示した洗礼者ヨハネを信じなかったが、徴税人や娼婦は、信じたとイエスは言います。これはどういうことでしょうか。

ヨハネが示した義の道とは、罪の告白であり、悔い改めでした。では、罪の告白や悔い改めとはどういうことでしょうか。それは、自分の中の悪、自分の弱さ、自分の小ささ、自分の無力を認めて、おおいなるもの、自分をはるかにこえるものに自分を委ねることではないでしょうか。

 洗礼者ヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言いました。ヨハネは自分の小ささ、弱さ、悪を認め、自分より優れたお方、自分よりはるかに大きな方に委ねようとしたのではないでしょうか。

 そして、徴税人や娼婦たちは、人びとから斥けられるゆえに、傲慢にならず、尊大にならず、ヨハネとともに、神の前で、自分の弱さ、小ささを告白し、自分よりはるかに大きな神に気づき、その神に委ねようとしたのではないでしょうか。

宣教とはどういうことでしょうか。聖餐式とはどういうことでしょうか。徴税人や娼婦を斥けないことではないでしょうか。徴税人や娼婦と同じようにこの世界の片隅にうずくまっている人びととともに生きようとすることではないでしょうか。いや、自分も世界の片隅にいる者として、生きることではないでしょうか。

 世界聖餐日、世界宣教の日において、わたしたちは、世界の片隅に埋もれている人びとを神が招いていることを、そして、世界の片隅にいるわたしたちを神が招いてくださることを、思い起こし、心に刻み込もうではありませんか。

祈り:神さま、あなたは、人からは顧みられず、ひとり悲しむ者たちを、あなたの食卓に招いてくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、わたしたちが、この食卓を、そして、この食卓を通して、あなたのいのちを、ひとりでも多くの人びととわかちあうことができますように。神さま、世の中から斥けられている人びとがいます。部屋の片隅でひとり不安と恐れに震えている人びとがいます。どうぞ、あなたがともにいてください。わたしたちもともにいさせてください。イエス、わがキリストによって祈ります。


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