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たましいは死なず [使信]

2020年10月25日 マタイ10:26‐33  「たましいは死なず」

 おはようございます。誰も見ていないところでは、ひどいこと、でたらめなことを言ったりしたりする傾向がわたしたち人間にはあるのかもしれません。公平に裁くことができる人や、そのことをおかしいと言ったり正したりする人がいないと、人間はかなりひどいことを言ったりしたりすることがあるのではないでしょうか。

 たとえば、いじめです。先生がいるところ、先生に見えるところではいじめは起こりません。けれども、先生がいなくて、つまり公平なルールがなくて、いじめっ子の都合の良い言葉だけがその場のルールになるとき、いじめられている子どもは、とてもひどいことをされたり、言われたりします。

 わたしも、残念ながら、あるとき、ある人々から耐えがたいことを言われ続けたり、信じられない仕打ちを受け続けたことがありました。そのとき、わたしはその人びとに、「あなたたちは今人数が多いことを笠に着て、そのようなでたらめを言い続け、わたしの言うことを嘲るが、もし今ここに〇〇先生がいても同じことを言えるのか」と問いかけました。これに対しても、こいつは何を言ってやがるのだと仲間内でゆがんだ笑いを見せあうだけでした。

 皆さんはいかがでしょうか。職場でひどい目に遭ったことのある方もおられるかもしれません。理不尽な形で職場を負われた人もいるかもしれません。どこかの教会でとても嫌な目に遭われた方もおられるかもしれません。親しい人々からひどい仕打ちを受けた方もおられるかもしれません。

 今日の聖書は、そういう皆さん、そういうわたしたちを、そんなひどいことをする人々を恐れてはならない、隠れたところでなされる暴挙はきっと明るみに出ると、はげましてくれているのではないでしょうか。

 人からひどい目に遭わされることだけではありません。病気などの苦しみについても、今日の聖書は、わたしたちを勇気づけてくれます。誰にも理解されず一人苦しんでいるように思えることであっても、わかってくれている人はきっといるし、神はわかっていてくださる、イエスはわかっていてくれる、だから、この病いも、この苦しみも、恐れることはない、きっと乗り越えることができる、と今日の聖書はわたしたちにエールを送ってくれているのではないでしょうか。

 今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書10章26節です。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。

 「恐れてはならない」。この言葉は、旧約聖書と新約聖書の常套句です。旧約聖書では「恐れてはならない」「恐れるな」「恐れることはない」という言葉が100回以上出てきます。アブラハムは故郷を出て困難な旅を続けますが、神は「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と励まします。「恐れるな」という意味の言葉は新約聖書でも20回以上出てきます。

 今日の聖書の個所は、イエスが弟子たちを人々の間に遣わす、という文脈です。弟子たちは、迫害を受けます。けれども、イエスは「恐れてはならない」と勇気づけます。

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という言葉の意味は、ふたとおりに取ることができると思います。ひとつは、イエスや弟子たちが伝えようとすることは、なかなか伝わらなくても、今は日の目を見ることがなくても、やがて伝わる、やがて世の中に明らかに知られるようになる、という意味です。皆さんが人知れず努力していることも、いつかきっとその人にはっきり伝わるということです。

 もうひとつは、あなたを苦しめる者が闇でなすことは隠し通すことができない、いつかかならず暴露される、明るい光にさらされる、という意味です。あの人たちはこっそりとわたしにこんなひどいことをしている、けれども、それはいつかきっと明るみに出る、ということです。今日の聖書の言葉からは、そのような意味も読み取れるかもしれません。

 27節です。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。これも、ひとつは、イエスが暗闇で弟子たちにひそかに指摘する迫害者たちの暴挙はやがて弟子たち以外にも明らかになるという意味と、もうひとつは、イエスが今は暗闇で弟子たちにひそかに教える神の真実はやがては世の人々全体に明らかになるという意味が考えられます。

 28節です。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。

 魂とはなんでしょうか。創世記に2章によれば、神は土の塵で創ったわたしたちの鼻に「命の息」を吹き入れてくれました。魂とはこれのことかなとも思います。しかし、これは、死んだあと、わたしたちの肉体から離脱し、死後も存在し続ける、わたしたちの一部のようなもの、お化けのようなものとは、考えないほうがよいでしょう。魂とは、わたしたちの一部の何かというよりは、わたしたちと神とのつながりのことではないか、とわたしは考えています。わたしたちの体は朽ちてしまいますが、神とのつながりは切れることがないとわたしは思います。その意味では、今日の「たましいは死なず」という題は誤解を招きやすいかもしれません。わたしたちの中から死後出ていく何かが生き続けるというよりも、神とのつながり、神との交わりは肉体の死後も断ち切られることがない、という意味なのではないでしょうか。

 29節です。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。

 一アサリオンは今の日本の物価で言いますと、数百円くらいかもしれません。さて、ここに「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とあります。では、神が許可を出せば、雀は地面に落ちてしまうのでしょうか。そういう意味でもないと思います。

 「父のお許しがなければ」という言葉は、もともとのギリシャ語をそのまま日本語にすれば、「父なしに」ということになります。「神なしに」ということです。そこで、ある人は、ここを、「雀が地に落ちるときは、神が一緒にいる、神が一緒に落ちる」という意味に解釈しています。地に落ちるときも、神が一緒にいる、ということです。非常に魅力的です。

 しかし、ここを、今日の新共同訳のように「神の許可なしに」「神がそうしようと思うことがなくては」という意味に解釈する人々もいます。そうだとしても、文脈から考えると、「神は、時々、雀が地に落ちることを許可する」という意味ではなく、むしろ、神はそんな許可はしない、雀は地に落ちることはない、同様に、あなたたちの魂は殺されることはない、神があなたたちに差し伸べたつながりはけっして滅びることはない、断ち切られることはない、だから、勇気を持ちなさい、という意味ではないか、とわたしは考えました。

 世の中に悪がはびこっているように見えます。悪いことばかりに思えます。けれども、神がいます。恐れるなと言ってくれる神がいます。この神とのつながり、恐れるなという神からの声はけっして消滅することはありません。神はわたしたちに、恐れることはない、わたしが一緒にいると、語り続けているのです。この神を信頼する祈りを、わたしたちは今日あらたにしようではありませんか。

祈り: 神さま、あなたは、わたしたちを創ってくださったときから、「恐れることはない」「恐れるな」「恐れてはならない」と励まし続けてくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、あなたは、あなたから私たちに手を差し伸べ、手を握ってくださり、わたしたちが恐れのただなかにあるときも、けっしてその手を離さないでいてくださいます。いつまでも離さないでいてくださいます。わたしたちが、そのあなたに信頼して、暗闇をも光を目指して、歩き続けることができますようにお導きください。イエスによって祈ります。

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