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うるわしの白百合 [使信]

2020年11月1日 ルカ7:11-15  「うるわしの白百合」

 おはようございます。わたしは毎朝NHKの連続テレビ小説を観ています。今は作曲家の小関裕而さんをモデルにした「エール」というドラマをやっていますが、何週か前、この中で、薬師丸ひろ子さんが讃美歌を歌っていました。それは「うるわしの白百合」というタイトルで、今日のこのお話の題もそこからちょうだいしました。

 75年前、愛知県の豊橋の町も空襲により町並みは焼け跡になってしまいました。薬師丸さんが演じる女性は、そこにたたずみ、この「うるわしの白百合」を歌ったのです。じつは、この讃美歌は、イエスの復活を記念するイースターに歌われるものですが、イエスだけでなくわたしたち人間も死んでしまってそれで終わりではないという信仰をあらわすために、教会では、お葬儀のときにも歌います。

 1節の歌詞をご紹介しますと、「うるわしの白百合 ささやきぬ昔を イエス君の墓より いでましし昔を うるわしの白百合 ささやきぬ昔を 百合の花 百合の花 ささやきぬ昔を」

 ここで言う「昔」は、新約聖書に記されている昔、つまり、イエスが復活したという二千年前、ということであり、わたしたちは今、春先に、しらゆりを見ると、二千年前にイエスが復活した物語を思い出す、ということでしょう。しかし、わたしたちは、これにつられて、イエスだけでなく、わたしたちの愛する人びとのことも思い出す、天に召された人びとのことも思い出すのではないでしょうか。

 柿生という地名のごとく、この季節、このあたりでは、たわわに実をつけた柿の木をいくつも目にしますが、初夏には、百合丘という地名のごとく、白だけではありませんが、百合の花を何輪も見ることができます。わたしたちは、百合を見て、イエスの復活を思い起こし、さらに、愛する人びとのことを思い起こしたいと思います。さらには、愛する人びととともに過ごした昔だけでなく、目には見えないけれども、愛する人びとは、じつは、今、ここにともにいることも思い起こしたいと思います。

 今日は永眠者記念礼拝ですが、わたしたちの愛する家族や友は、地上の旅を終えた後、どうしているのでしょうか。先ほど読んでいただきました聖書、最初に読んでいただいた方ですが、これは旧約聖書にある詩編ですが、その中にこうありました。

 詩編16:10‐11 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 ここでは、わたしたちは、陰府(よみ)にとどまるのではなく、墓穴に閉じ込められるのでもなく、命の道を歩む、とあります。つまり、死んだ人も、暗いところにとどまっているのではなく、命の道を歩んでいるのではないでしょうか。どのような形でそうしているのかは、わたしたちにはわかりませんので、それは神にまかせますが、永眠者もまた、命の道を歩んでいる、とわたしたちは信じます。

 今日の二番目の聖書の個所、ルカによる福音書7章を振り返ってみましょう。11節です。「7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」。

 この母親はやもめであったと言います。つまり、夫はすでに地上の旅を終えていたのです。そして、いま、息子も、地上の旅を終えてしまいました。愛する人ふたりをすでに天に送っているのです。

 13節です。「7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた」。

 「憐れに思い」とありますが、これは上から目線で「かわいそうに」と見下すことではなく、自分の内臓が痛むくらいにその人の痛みを感じるという意味の言葉です。

 14節です。「7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。

 死んだ息子が起き上がってものを言い始めたとあり、イエスはその息子を母親に返したとありますから、母親と息子は、昔のように親しく語り合った、母と子の対話が再開したのではないでしょうか。

 聖書にはこのような物語が記されています。これは、昔ばなしにとどまらず、じつは、今も起こりうること、今も起こっていることではないでしょうか。

 たしかに、棺に横たえられた死者が起き上がるというようなことはないでしょう。けれども、わたしたちが永眠者とふたたび対話をする、わたしたちが今なお永眠者と対話をする、心の中で対話をするということは、じゅうぶんにありうるのではないでしょうか。いや、すでに起こっていることではないでしょうか。

 愛する家族が地上の旅を終えるとき、わたしたちは深い悲しみに浸ります。けれども、神はそのわたしたちを憐れに思ってくださいます。愛する人びとと別れたわたしたちの悲しみを神はわがこととして感じてくださるのです。そして、「もう泣かなくてもよい」と言ってくださいます。

 神は、死者を、永眠者を起こしてわたしたちの元に返してくださいます。神は、わたしたちが永眠者とふたたび語り合えるようにしてくださるのです。おかあさん、おとうさん、誰々さん、どうしていますか、おかあさん、おとうさん、だれだれさん、わたしは今悩んでいます、わたしはどうしたら、いいのでしょうか、と語り合えるようにしてくださいます。それは、超自然現象ではなく、わたしたちが、この礼拝においても、あるいは、これからさきどんなときでも、わたしたちがそのように永眠者に心の中で語り掛けるときに真実となるのです。

 二千年前、イエスの弟子たちは、イエスに先立たれました。イエスは弟子たちを地上に残して、天に帰ってしまったのです。弟子たちにとって、イエスは一輪の白百合のように大切な存在、愛する存在でした。そのイエスが死んでしまって、弟子たちは白百合が枯れてしまったような悲しみと孤独に浸りました。野原のすべての花が枯れてしまったように思えました。

 ところが、あるとき、弟子たちは、じつはそうではなく、イエスが今も自分たちと一緒にいることに気づいたのです。目には見えないけれども、イエスが自分たちから遠くに行ってしまったのではなく、隣りに帰ってきたことに気付いたのです。弟子たちの野原にはふたたび百合の花が一面に咲き誇ったのです。

 わたしたちも、愛する家族が、親しい友が、春の野の白百合のように今もここに咲き誇っていることを信じようではありませんか。

 祈り:神さま、聖書によれば、二千年の昔、あなたはイエスを墓に閉じ込めず、イエスを慕う者たちのもとに連れ戻し、語り合うことを許されたとあります。わたしたちも、何人もの家族や友を送りましたが、いまなお、ともに歩み、ともに語り合い、ともに生きることをお許しください。いや、あなたがすでにそうしてくださっておられることに心より感謝を申し上げます。神さま、悩む友を慰め、励ましてください。イエスによって祈ります。

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