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「弱く見える部分が、かえって必要」 [中高生向けのお話]

M高校での奨励です。

新約聖書p.316 コリントの信徒への手紙一 12:14-22
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

 皆さん、おはようございます。わたしにも皆さんと同じ高校生の子どもがいますが、先日、部活の試合で、腰を痛め、翌朝、整形外科に行くことになりました。ところが、その整形外科は常連の患者さんで満員でした。けれども、「できれば診察の後、学校に行きたいので、緊急で見ていただけないでしょうか」とお願いしたら、そうしてもらえました。
 わたしたちの普通の感覚で言えば、早く来た順に診察してもらうのが当然で、あとから来たのに、さきに見てもらうのはずるいようにも思われますが、その人の症状の重さや治療の緊急性に応じて、医療機関では、順番が変わることもあります。いわば、今苦しんでいる人、困っている人が、優先されるということです。
 皆さんの中には、部活やクラスで、リーダー的な役割をしている人もいると思います。リーダーは、部員全体、クラス全体を把握しなければなりませんが、同時に、その中で、おとなしい人や元気のない人、何か悩んでいそうな人にも気配りをしなければならないのではないでしょうか。
 小学校の遠足の山登りなどで遅れてしまう子が出てくると、先生によっては、その子を支えようとすると聞いたこともあります。
 日本や世界の各地には、貧しい人など、困難な立場にある人をサポートする社会福祉制度がありますが、ちかごろは、それを不公平だ、という人もいるようです。けれども、自分が貧しかったり、困難な立場にあったりすれば、ほとんどの人は、社会福祉は不公平は制度ではなく、むしろ、大切な社会の仕組みであると考えることでしょう。
 先ほど読んだ聖書は、こういうことを言っていました。じつは、ここでは、キリスト教の教会が人間の体にたとえられているのです。そして、教会という体は、いろいろな部分から成り立っている、と言っています。けっして、ひとつのものだけから成り立っているのではないと。人の体にたとえれば、足だけ、耳だけから成り立っているのではなく、足もあれば手もあり、耳もあれば目もあります。耳は聞く役割を果たし、鼻は臭いを嗅ぐ役割を果たします。つまり、教会には、じつに様々な人びとがいて、そのひとりひとりが大切な役割を担っているというのです。
 そして、ぎゃくに、ひとりひとりの役割はたがいに異なっていても、全体では一つの体のような働きを教会はしているともいうのです。だから、誰かが誰かに向かって、「あなたは要らない」「あなたは必要ない」などと言ってはいけない、というのです。
 さらには、もしかしたら誰かから要らないと思われたり、わたしたちがあの人は要らないと思ったりするような人びと、いわば弱く見える人びとがかえって必要だというのです。
 教会だけでなく、社会も同じではないでしょうか。わたしたちは、強い人びとが必要だと考えてしまいます。優れた人びとが必要だと考えてしまいます。けれども、教会だけでなく、部活でも、クラスでも、弱く見える人、わたしたちが要らないなどと思ってしまう人びとが必要なのではないでしょうか。
 「弱く見える部分が、かえって必要」というと、反対に強い人が差別されているように思われるかも知れませんが、そうではありません。弱い人と強い人がいれば、まずは、弱い人を支えなければ、公平な社会にはならないということだと思います。
 皆さんも、部活やクラスだけでなく、これから、大学や社会でリーダーの役割を果たすことがあると思いますが、そのとき、聖書には「弱く見える部分が、かえって必要」とあり、礼拝では「弱い人びとを優先する」と言われていたことを、思い出していただけたらと思います。
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