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「イエスは誰をも追い出しません」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(97)

「イエスは誰をも追い出しません」

 かつて女性には参政権がありませんでした。政治から締め出されていたのです。(日本では今も女性の政治家は少ないですが・・・)。それだけではありません。それ以外にも女性が「入ってはならない」とされる場がたくさんありました。いまもあります。

 ひじょうに申し訳なく、残念なことに、東アジアのいくつかの国の人々に向かって「ここから出て行け」という罵声をぶつける日本人がいます。そして、それをそうさせたままでいる日本人もいます。

 さいきん「LGBTは生産性が云々」と発言した国会議員がいますが、これも、その人びとを社会から締め出す行為ではないでしょうか。言うまでもなく、この暴言は氷山の一角で、性的少数者を排除しようとする言動はさまざまな場に根深く存在しています。

 新約聖書によりますと、子どもたちがイエスのところに来ようとすると弟子たちはそれを妨げました。けれども、イエスは子どもたちを迎え入れました。

 二千年前の子どもたちも、労働力になりませんから、それこそ、生産性が低いと見なされ、おとなからは、軽んじられたり、追いやられたりしていました。けれども、イエスは、そのような社会の暴虐に抗い、子どもたちを抱き上げました。

 この話からふたつのことを教えられます。ひとつは、イエスの弟子たちが子どもたちを斥けたように、上で述べたとおり、わたしたちもさまざまな人びとを排除しています。弟子の姿はわたしたちの姿です。けれども、わたしたちは、弟子たちのような者から、イエスのような者へと、変わって行くように促されているのではないでしょうか。

 もうひとつは、イエスは、わたしをも受け入れてくれるということです。わたしたちも、また、上述のような理由で、あるいは、社会的な枠組みには数えられないようなことで、たとえば、いじめのような形で、あるいは、「変な人」とか、「問題のある人」「怖い人」「暴力的な人」とか言われて、人から疎んじられ、蔑まれ、距離を置かれたり、仕事や人間関係の面で、不利益や苦悩を負わされていないでしょうか。

 わたしたちもまた、ある「場」から、「ここには入れませんよ」と宣告されていないでしょうか。けれども、イエスだけは、そういうわたしたちを迎えてくれる、容れてくれる、そのようなメッセージをも、この話から受け取るのです。

(マルコ10:13-16)

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