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洗礼式の三つの側面 [今週の言葉]

 洗礼式には、1)受ける私たちが信仰告白をする 2)神様が私たちに新しいいのちを与えてくださる 3)教会に新しい枝が連なる、という三つの側面があります。
 成人の洗礼式では、洗礼を受ける人は使徒信条に基づいて信仰告白をします。「天地の造り主、全能の父なる神」への信仰、「人となり苦しみを受け、死んでよみがえられた神のひとり子、イエス・キリスト」への信仰、そして、聖霊への信仰、つまり三位一体の神様への信仰が告白されます。また、聖なる公同の教会に属し、罪が赦され、復活と永遠のいのちを与えられるという信仰も告白されます。
 この意味では洗礼式には私たちがキリスト教信仰を告白する側面がありますが、洗礼式の中心である洗礼そのものは神様の業であることを忘れてはなりません。信仰告白は洗礼の条件でありますが、信仰告白も神様に導かれてなされるという意味では、洗礼において現われる神様の恵みに支えられているということもできるでしょう。
 さて、洗礼は水の中に全身を沈めることで古い自分、ただ滅び行く罪人である自分が一度死ぬことであり、同時に、水の中から浮かび上がることで、罪が赦され、新しい自分、赦された罪人としてもう一度生かされることを現わしています。
 それはキリストの恵みによってなされます。なぜなら、「わたしたちはキリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ローマ6:3)からです。つまり、洗礼とは私たちがキリストと結ばれることであり、「キリストと共に葬られ、その死にあずかる」(6:4)ことであり、さらには、「復活の姿にもあやかれる」(6:5)だからです。
 言い換えますと、私たちが洗礼において死んで生きることができるのは、キリストがすでに十字架にかかって死に、そこから復活してくださったからなのです。洗礼を受けるということは、私たちが十字架と復活のキリストと一体にしていただくことです。洗礼を授かるということは、私たちはひとりで死んでひとりで滅びるのではなく、キリストとともに死んで、キリストとともに生かされる、という恵みにあずかることなのです。
 最後に、ひとりの人の洗礼は教会全体の喜びです。なぜなら、教会はキリストの体であり、洗礼を受ける人がキリストと一体になることは、キリストの体である教会に枝として連なることだからです。
イースターやクリスマスなどの礼拝で姉妹や兄弟の洗礼式があることによって、教会とそれにつらなる私たちは、キリストとともに古い自分が死に、キリストともに自分が新しくされる恵みをあらためて受け取ることができるのです。


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