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主のいのちをともにわかちあう [今週の言葉]

 私たちは聖餐式で、姉妹兄弟とともにパンとぶどう酒をいただきますが、これにはどのような意味があるでしょうか。
 キリストは最後の晩餐でパンを取り、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(一コリント11:23)と言われました。パンはキリストの体です。つまり、キリストのいのちを意味します。そこにはキリストの愛が満ちあふれています。しかし、これはただ単にキリストの体であるばかりでなく、「あなたがたのための」キリストの体なのです。つまり、他ならぬこの私たちのためにキリストが与えてくださった体であり、いのちであり、愛であるのです。キリストは十字架にかかってその身をささげることで、罪ゆえに死んで滅びるしかなかった私たちに新しいいのちを与えてくださったのです。聖餐式のパンにはそのような意味があります。
 キリストはまた杯をとって「これは、多くの人のために流されるわたしの血」(マルコ14:24)と言われました。つまり、聖餐式のぶどう酒は、キリストが私たちの罪のために流してくださった血を現わすのです。血は本来、私たちが犯した罪の罰として流されるものです。キリストは私たちに代わって血を流してくださいました。しかし、罪のないお方が罪ある者に代わって血を流すことによって、罰としての血が救いとしての血となったのです。罪の罰としての死がいのちを与えるための死となったのです。
 それゆえに、聖餐式では「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリント11:26)と唱えられますが、この「主の死」とは、私たちが罪ゆえにキリストにもたらした死であると同時に、キリストが私たちを救ってくださる死、いのちを与える死であることを思い起こしたいと思います。つまり、聖餐式は単なる「主の死」ではなく「主の救いの死」「主の死と復活」を告げ知らせているのです。
 さて、このように私たちは聖餐式を通していただくキリストの体と血によって死から生へと引き上げられますが、私ひとりではなく「わたしたち」がキリストのいのちをいただくことも大事にしたいと思います。わたしたちはキリストの体に「あずかる」ばかりでなく、キリストの体を「わかちあう」のです。わたしたちは姉妹兄弟とともに等しくキリストの体にあずかっているのです。そして、キリストの体、キリストのいのちを等しくわかちあわせていただくことによって、それ以外のものも等しくわかちあうような生活にわたしたちは招かれているのです。
 使徒言行録には「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き」(2:44-46)とあります。「パンを裂き」とは聖餐式を思わせます。この記事は聖餐式と皆が一つになる生活が強くつながっていたことを示しているように思われます。


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