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神のものは神に [使信]

2021年10月10日 マタイ22:15-22 「神のものは神に」

おはようございます。神の愛は無償の愛、無条件の愛である、と聖書は言いますが、それは、具体的にはどういうところにあらわれているでしょうか。ひとつは、わたしたちはこの世界に生まれてくるときに、いのちを買ったわけでもなく、何かと交換したわけでもなく、生まれてくる前に何か善いことをしたそのご褒美に、いのちをいただいたわけでもありません。いのちは、神から無償でいただいたのです。いのちは、神から無条件にいただいたものです。

そして、もうひとつは、わたしたちは、今も生きていますが、それは、わたしたちが生き続けるのにふさわしい何かをしたからでもありません。わたしたちは、今、無償で、無条件でいかされています。今日のいのちもまた、神から無条件にいただいているのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書22章15節です。22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

ファリサイ派やその弟子たち、あるいは、ヘロデ派と呼ばれる人たちは、イエスのことをよく思っていなかったようです。イエスの話が人びとの心をひきつけていたからでしょうか。あるいは、イエスが、彼ら支配者、権力者の悪を見抜いていたからでしょうか。

彼らは、イエスの言葉じりをとらえ、罠にかけようとします。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」つまり、「わたしたちユダヤ人はわたしたちを支配しているローマ皇帝に税金を納めるべきか、どうか」と迫っているのです。

もしイエスが、わたしたちユダヤ人はローマ皇帝に税金を納めるべきだ、と答えれば、イエスはユダヤ人同胞を裏切り、敵であるローマ皇帝の側についた、ということになります。はんたいにイエスが、ユダヤ人はローマ皇帝に税金を納めるべきではない、と答えれば、イエスはローマ皇帝に逆らった、謀反を起こした、ということになります。つまり、どちらの答えを出したとしても、イエスは窮地に陥ることになる、そのような罠がしくまれた問いを、ファリサイ派やヘロデ派の人びとはイエスにつきつけたのです。

彼らはさらにこう言います。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」。

彼らは、イエスのことを、先生とも思わず、真実な方とも思わず、真理に基づいているとも思っていないのに、口ではそう言います。そして、イエスのことを、「だれをもはばからない方」と言います。

「はばかる」とはどういう意味でしょうか。国語辞典で調べてみたら、ひとつは、「幅をきかす」「いっぱいに広がる」という意味がありました。憎まれっ子、世にはばかる、のはばかるですね。いや、どなたのことでもありません。

「はばかる」のもう一つの意味は「遠慮する」ということです。つまり、ここで、ファリサイ派の人たちが、「あなたはだれをもはばからない」とイエスに言っているのは、イエスはローマ皇帝にも遠慮しないだろう、という含みをもたせているのかもしれません。

このような悪意ある質問に対して、イエスは、ユーモア、しかも、深い意味を込めたユーモアで答えたように思えます。

18節です。22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。するとイエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

税金を納める銀貨には、ローマ皇帝の顔が書かれていました。イエスは、それなら、その銀貨はローマ皇帝のものだろうから、ローマ皇帝に返しておけばよいだろう、と言うのです。三年後に、一万円札には、渋沢栄一さんの顔が印刷されるそうです。イエス流に言えば、渋沢さんの顔が印刷されているのなら、渋沢さんに返しておきなさい、ということになるでしょうか。

なんだかイエスの笑顔が想像されます。しかし、一万円はもったいないですし、渋沢さんはお金持ちでしょうから、返さなくても大丈夫でしょう。どっちにするのか問い詰められて、どちらも選べない場合は、イエスのように、どちらでもない第三の道を考えるのもよいと思います。

けれども、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というユーモアのあるイエスの言葉には、もっと深い意味も考えられます。

この言葉から、政教分離の原則を思い浮かべる場合もあるかもしれませんが、政教分離とは、信仰を持つ者は政治的なことがらに関わってはならない、ということではなく、国家は政治に宗教を利用してはならない、ということです。信仰を持つ者は、戦争反対、差別反対と発言すべきときは発言すべきですが、国家は特定宗教を利用して人びとを治めようとしてはならないのです。

 けれども、イエスがここで言おうとしていることは、こういうことではないでしょうか。まず、「皇帝のものは皇帝に」とは、わたしたちが規模は小さくても皇帝のように権力欲や誰かを支配したいという欲望、過度の物欲、過度の私欲を持つならば、そんなものは、皇帝に返してしまえ、ということではないかと思いました。

そして、「神のものは神に」とは、神に委ねるべきものは神に委ねる、神に返すべきものは神に返す、ということではないでしょうか。神からいただいたいのち、富、能力、愛を、これは自分のものだとにぎりしめることなく、神に返すことではないでしょうか。あるいは、信仰、信仰の心、信仰心もまた、神にいただいたものですから、神に向けるべきではないでしょうか。

わたしたちのこの世の命、人生は、神にいただいたものです。死とは、それを神にお返しすることではないでしょうか。この世の命、生命がなくなることは怖い、人生を終えることは怖いように思えますが、それは、神にいただいたもの、神のものなのですから、その時が来たなら、神にお返しをするのです。

その日まで、わたしたちはどのように生きたらよいのでしょうか。それは、わかちあって生きることだと思います。時間、力、能力、人生、いのち、わたしたちが持っているものは、神からいただいたものであり、ほんらい自分一人で独占するものではありません。むしろ、隣人とわかちあうべきものです。そして、隣人とわかちあうことを通して、わたしたちは、神にお返ししているのではないでしょうか。

 わたしたちは、今持っているものを惜しみますが、それを隣人とわかちあっていき、その日が来たなら、神にお返ししたい、そういう信仰の日々を歩みたいと思います。

旧約聖書のヨブ記でヨブはこう言っています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

 裸で母の胎を出て来たはずのわたしたちが、今、何かしらのものを持っています。それは、自分で獲得したように見えて、結局は、神が与えてくれたもの、神にいただいたものではないでしょうか。それならば、それを隣人とわかちあい、さいごは神にお返ししたいと思います。主は奪う、とありますが、わたしたちは主に奪われるというよりは、主にお返ししたいと思います。主がすべてを与えてくださいました。わたしたちはそれを握りしめず、主にお返しいたしましょう。

祈り:神さま、わたしたちはそれに値することを何もしていないにもかかわらず、あなたは、わたしたちにいのちを与えてくださいました。そして、わたしたちは何もしていないにもかかわらず、あなたは、今日わたしたちを生かしてくださいます。わたしたちが持っているものは、思い直してみれば、すべてあなたからいただいたものです。その恵みに心から感謝申し上げます。わたしたちは、その日が来たら、あなたにお返しすることができますように、お導きください。神さま、持たざる友がいます。どうぞ、わたしたちが持てるものを友とわかちあうことができますように。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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