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わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し [中高生向けのお話]

イザヤ書43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し

 皆さん、おはようございます。劣等感とういう言葉があります。自分は駄目だな、まわりと比べて、自分は駄目だな、という気持ちのことですね。
 
わたしは、小学校の頃は、勉強の成績は悪くはありませんでしたが、それでも、勉強以外のことで、まわりから低く見られているな、自分は低い方だな、という気持ちは持っていました。反対に、自分よりテストの点が悪い人に対しては、劣等感の反対の優越感を抱いていました。小学校の頃のテストは100点とか90点台とかで、そうでない人よりも自分はすごいみたいな気持ちを持っていました。

 中学に入ってもだいたい同じような感じでしたが、中学生になると中間テスト、期末テストで学年で何番、といった数字が出てくるので、それによって、優越感を覚えたいという気持ちが強くなってきたように思います。

 ところが、高校に入ると、勉強の方でも、小学校や中学校のようにはいかず、だんだんと劣等感を感じるようになってきました。それでも、いわゆる良い大学に入って、優越感を持ちたいという思いはつねにありました。

 さらに、社会人になっても、まわりから優れた評価を得たい、人より偉いと思われたい、という気持ちは、つねにつきまとい、同時に、あるいは、反対に、自分はまわりからあまり評価されない、人から高く見られていない、という劣等感もふりはらうことはできませんでした。

 わたしには皆さんと同じ高校生の子どもがいます。高校三年生で、大学受験生です。子どもたちに対しても、学校のテストや模試で良い点をとってほしい、良いと思われる大学に行ってほしいという気持ちがあります。子どもにもそういう気持ちで接してしまうことが多いとつねに反省しています。

 けれども、どうでしょうか。子どもたちの成績が良くなければ、子どもたちのことを大切に思わないで良いのでしょうか。子どもたちの成績に関係なく、子どもたちのことを大切に思うのが親ではないでしょうか。いや、むしろ、子どもたちの成績が良くないとき、子どもたちが勉強やそれ以外のことでうまくいかずに苦しい気持ちになっているときに、勉強や何かがうまくいっているいないに関係なく、子どものことを大切に思うのが、親の仕事ではないかなと日々反省しています。

 子どもたちだけでなく、人間は、立派でなくても、生きているだけでも、とても大切な存在です。もし、その子ども、その人が、万が一いなくなってしまうことを想像したら、立派でなくても、生きているだけでも、いや、生きているからこそ、大切な存在だと思われるのではないでしょうか。

 今日の聖書は、神がわたしたち人間に向けた言葉です。その中で、神は「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と言っています。これは、人の目から見たら、あるいは、あなた自身の目から見たら、あなたは駄目に思われたり、自分でもそう思ってしまったりしているかもしれないけれども、わたしの目には、神であるわたしの目には、あなたは、とても価値のある存在で、貴い存在だよ、わたしはあなたを愛しているよ、という意味です。

 では、神はなぜ人を、わたしたちを愛するのでしょうか。それは人がわたしたちが立派であるとか成績が良いとかそういうことではなく、神は人を、わたしたちを創造した、創ってくれたからです。

 わたしたちは、自分が心こめて一生懸命に作ったものは、それが立派であろうと、人がどう思おうと大切にしますよね。神も同じです。神も、一生懸命に心を込めて、愛を込めて作ったから、人を、わたしたちを大切にしてくれる、貴い、値高いと言ってくれるのです。

 先ほど、わたしの子どもたちの話をしましたが、子どもたちも、他の人も、やはり、神が一生懸命に心を込めて、愛を込めて創った存在です。ですから、私も、その人がどんな人であろうとも、値高い、貴い、そのように思って、接することができたらと願っています。
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