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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(102)「願うだけでなく、委ねようとしてみましょう」  [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(102)「願うだけでなく、委ねようとしてみましょう」 

 「今日の晩ご飯には何を食べたいですか」と訊かれても、とくに食べたいものがなければ、「おまかせします」と答える場合が多いのではないでしょうか。これは、相手を本当に信頼して委ねているというよりは、何も思いつかない、考えるのが面倒くさいから、相手にそれを押し付けている側面もあるかもしれません。けれども、「おまかせします」と言ったからには、どんな食べ物が出てきても文句を言わない節度も、そこにはあるのかもしれませんし、あまり変なものは出さないだろうという程度の信頼感もあるのかもしれません。

 仕事を同僚や上司や部下に任せた場合はどうでしょうか。そこには、自分の想像するものとは違う結果が出ても受け入れるという覚悟と、どんな結果が出るとしてもこの人のすることなら大丈夫だろうという信頼がある、あるいは、求められるのではないでしょうか。

 わたしたちは、人に何かを期待するときも、お願いばかりするのではなく、相手に任せることも大事でしょう。やりなさい、やってくださいと四六時中お願いするばかりでなく、きっとやってくれるだろう、どんなものかはわからないけれども相手なりの結果を出してくれるだろう、と信用することも大事です。

 行きたい大学、就きたい仕事。そういう願いはあるけれども、たとえどこの大学に行っても、どんな仕事に就いても、道は拓かれる、なんとかなるという、底の深い楽観が人生には求められます。

 新約聖書によれば、イエスは十字架につけられ死ぬことがわかっている前夜、神にこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 神を信頼して、アッバ(「父さん」というようなニュアンス)、あなたは大きな力を持っておられます、と呼びかけます。そして、明日十字架という死刑を受けないで済むようにしてくださいと願います。けれども、どういう結果になろうともあなたに委ねます、お任せします、と付け加えるのです。

 わたしたちも、こうなりますようにと強く願うことも大事ですが、いま願っていることについてどんな結果が出るかはわからないけれども、それでも人生はなんとかなる、大丈夫だと信じることが大切ではないでしょうか。

(マルコ14:16)

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