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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(100) 「世界が自分を何とかしてくれると信頼できれば、自分以外のためにお金を使うことができるようになります」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(100) 「世界が自分を何とかしてくれると信頼できれば、自分以外のためにお金を使うことができるようになります」

財界人や芸能人などが、百万、千万、億の単位で、寄付や支援や献金し、マスコミに取り上げられることがあります。けれども、残るお金も、千万、億、十億の単位です。小学生が貯金箱の小銭を全部献金しました。一万円にもならないかも知れません。けれども、一円も残りません。前者だけがすばらしいことのようにもてはやされるのはどうでしょうか。

前者はなぜ全財産を寄付しないのでしょうか。あしたからの生活があるからです。あしたからも今と同じレベル以上の生活をしたいからです。子どもはどうして全財産を献金できたのでしょうか。全財産を失っても保護者が衣食住を提供してくれる、生活を支えてくれることを信じていたからではないでしょうか。いや、「衣食住の提供」や「生活の支え」などという考え以前に、明日のことを思い煩うことがなかったからではないでしょうか。信頼するとか大丈夫とかいう言葉以前の、世界への根本的な信頼が子どもにはあるからではないでしょうか。

聖書によりますと、人びとが賽銭を入れる様子をイエスが見ていました。賽銭箱の前には、金持ちがつぎつぎにやってきて、おそらくは人目につくように、高額を投じていました。ところが、そこに、貧しい未亡人がひとりやってきて、ひそかに銅貨を二枚、ささげました。今のお金で言えば、100円くらいにあたるでしょう。

これを見て、イエスは、この女性は誰よりも多く入れた、と言いました。なぜでしょうか。それは彼女の全財産だったのです。彼女は100円しか持っていませんでした。それをささげれば一文無しです。もう何も買うこともできません。けれども、彼女は神にそれをささげたいと願ったのです。

金持ちたちは高額を投じても、それよりも高額が手元に残ります。それがあるから、高額を投じることができたのです。それでも、彼らは生活を脅かされることはありません。彼らは、財産によって自分たちのすべてを支えていたのです。

たほう、彼女には何も残りませんでした。いや、神への信頼だけが残ったのです。神を信頼したから、全財産を神にささげることができたのです。けれども、これは賭けではありません。彼女は、神に委ねたのです。

わたしたちは全財産を何かにささげることはできません。(ささげる必要もありません。最低限度+アルファは確保すべきです。)けれども、今よりも多くを誰かのために使うことができるようになるかも知れません。今よりも痛みをもって、誰かのためにお金を使うことはできるようになるかも知れません。

そうすると、自分の生活は大丈夫だろうか、という不安が起こるかも知れませんが、貯金箱ごとささげた小学生やこの未亡人のように、世界と神が自分を支えてくれる、なんとかしてくれる、という信頼もまた育って行くのではないでしょうか。

(マルコ12:38-44)

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