SSブログ

内をきれいに [使信]

2020年11月8日 マタイ23:25-36  「内をきれいに」

 おはようございます。今日の使信には「内をきれいに」という題をつけましたが、これは、「おうちの掃除をきちんとしましょう」と申し上げているのではありません。聖書には「内側をきれいに」とありましたが、「内側」の「側」という字は、画数が多いので、看板を書いてくださる方のご負担が少しでも減ればと思い、「内」だけにしました。もっとも、こちらの教会の牧師の名前には、画数の多い漢字がふたつもありますから、書いてくださる方は毎週大変だと思います。

 さて、ここには、親が牧師だったという方が何人かおられます。その牧師先生たちは違うと思いますが、わたしは牧師をしていた父に対して、この人は偽善者だな、という思いを抱いていました。教会では、牧師としては、「先生、先生」と呼ばれ、たいてい、にこにこし、皆さんにていねいに接していましたが、家では、まったく違う顔をしていました。わたしが子どものころ、プロレスがテレビでよく中継されていましたが、父は右手をこぶしにしながら、興奮した顔つきでプロレスに見入っていたのです。

 それだけではなく、わたしの母やわたしの姉や弟にも、とても、厳しい人でした。「巨人の星」という野球の漫画に出てくる、主人公のお父さんは、うちの中で、よく卓袱台をひっくり返していました。我が家は卓袱台ではなく、椅子に腰かける式のテーブルでしたので、さすがにそれはひっくり返しませんでしたが、父は、外では牧師先生でしたが、家の内では、ネロのような暴君でした。こういうのを偽善者というのでしょう。
 
 わたしも同じかもしれません。つれあいや子どもたちは、教会でのわたしと家でのわたしは違うと思っているかもしれません。「外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」。イエスにこう言われれば、わたしは、ただ「その通りです」と言うしかないでしょう。

 わたしは先月還暦になりました。しかし、何も変わりません。年を重ねてくると、人間性も熟してくる、円熟に近づいてくると思い、最近の自分はそれなりに円満だとさえ思っていましたが、わたしの場合は、それは大きな勘違いでした。年齢とともに、自分の悪いところを押さえていた重しがとれていくように思います。ブレーキ、自制心が弱くなっているように思います。これは、あくまでわたしのことです。自分は円熟味を増してきたなどと思わず、還暦になった今からこそ、熟していくように心がけなければならないと考えています。

 わたしは、どうしようもない、救われがたい人間だと思います。口では、神を信頼して生きていきましょうと言いながら、神を信頼しきっていない、神ではなくもっと目に見えるもの、もっと感覚的なものに頼ろうとしてしまいます。隣人を愛するイエス、敵を愛するイエスのことを語りながら、じつは、人を傷つけています。そういうどうしようもない、救われない人間だと思います。今日の午後、牧師就任式がありますが、そんな人を、牧師に就任させてしまって、大丈夫でしょうか。

 わたしが聖書から何か語ることがあるとすれば、そういうどうしようもない、救われない人間ではありますが、それでも、神に赦され、生かされているということです。そういう偽善者ですが、神から生かされているということです。

わたしの言葉や行いは、つねに神にとがめられるべきものであり、神はつねに戒めていると思います。けれども、神は、わたしの言動はとがめても、わたしの存在は許してくださっていると信じるのです。だから、なんとか生きることができるのです。

けれども、わたしは居直ってしまっていないでしょうか。わたしの信仰は、信仰なきわたしを神が生かしてくださる、というものですが、それでも、信仰などどうでもよい、ということではありません。信仰なきわたしが赦されているという救いをじっくりかみしめて、じっくり味わって、それを、わたしの血とならせ、肉とならせることが信仰ではないでしょうか。

今日の聖書を読んで、あらためて自分が偽善者であることを痛感したならば、わたしは、少しでも神を信頼する生き方を、少しでも人を傷つけないような言動を、自分の思いよりも相手の思いを大事にする生き方を心がけ、あらためて祈り求めなければならないのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書23章25節です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」

 強欲と放縦とあります。強欲は、略奪、あるいは、かすめとった物、と訳すこともできるようです。そして、放縦は不節制とも訳せるようです。

 すると、内側をきれいにするとは、人から強欲に奪わない、むしろ、人とわかちあうということでしょう。あるいは、節制をこころがける、度を超えないようにする、自分を律する、人を傷つけないように自分を律するということも思わされます。

 27節です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」。

 偽善と不法で満ちている、とあります。偽善とは、相手のためにしているように装いつつ、あるいは、相手のためにと思いつつ、じつは、すべて自分のため、というような姿勢のことではないでしょうか。不法とは、この場合、法に背くというよりも、神の愛に背を向ける、その人に向けられている神の愛に背を向け、その人を傷つけることではないでしょうか。

 29節です。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」

 昔の預言者、昔の正しい人をほめたたえながら、今目の前にいる人々を苦しめる者たちを、イエスは、偽善者と呼びます。わたしも、たとえば、ボンヘッファーはすばらしい、キング牧師は偉大だ、と言いながら、人を傷つけ、苦しんでいる人びと、差別されている人びとに無関心であれば、イエスから偽善者と呼ばれることでしょう。

 「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ」とあります。牧師であった父の偽善を牧師となったわたしが仕上げているとイエスに言われても、返す言葉がありません。

 今日、イエスに指摘されていることに、わたしは返す言葉がありません。けれども、それにもかかわらず、わたしは生かされています。ここに存在しています。自分の言葉や行動は偽善に満ちていて、救いがありません。わたしを救うことはできません。神しかわたしを救うことはできません。

 そして、たしかに神はわたしを救ってくださっていると信じます。それは、わたしの中に救いにあたいする何かがあるからではなく、神が偽善者ではないからです。神は、偽善者ではなく、むしろ、徹底的に誠実なお方であるから、偽善者であるわたしが救われるのです。わたしが偽善者であるにもかかわらず、神は善であり、まことの善であり、まことに誠実なお方であり、まことに信頼にあたいするお方であるから、わたしは生かされているのです。

 人の言葉は、ときにむなしいです。人はときに偽りの言葉を発します。けれども、神の言葉は偽りではありません。不安に震えるモーセに、神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言いました。この言葉は偽りではなく、モーセにおいて、そして、イスラエルの民において、イエスにおいて、そして、わたしたちにおいて、真実になったのです。

 祈り:神さま、あなたが偽善者でないことに、偶像ではないことに、感謝いたします。神さま、あなたの言葉は、偽りではなく、真実です。あなたは、わたしたちをけっして見捨てず、祈るときも、祈りから離れているときも、ここにいらしてくださり、わたしたちを生かしてくださいます。神さま、世の不誠実、世の偽善に苦しんでいる友がいます。病気や困難と向かい合っている友がいます。どうぞ、あなたのまことの愛とまことの癒しをもたらしてください。イエスによって祈ります。

nice!(0) 

nice! 0