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「イエスは、自分を否定した弟子をも、否定することはありませんでした」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(104)

「イエスは、自分を否定した弟子をも、否定することはありませんでした」

 父は気の短い人でした。よく怒られ、怒鳴りつけられました。一方的にまくしたてられました。こちらの言うことには耳を傾けてくれませんでした。それでも、父が好きでした。父にほめられたかったし、話を聞いてほしかったのです。

 大学に入学したものの、まったく通わず、パチンコと麻雀で遊びほうけていました。二年からはしっかりやりなおそうと思ったものの、それも一か月と続きませんでした。このままだとどうしようもない。その大学を中退して、他の大学に再入学して一年からやり直そうと思いました。そして、そのことを手紙に書き、父に送りました。

 「おまえがそう決めたのなら、そうしたらよい」。これが父の返事でした。この言葉に救われました。厳しい父でしたが、ぼくがその大学に合格したことは、とても喜んでくれました。そこを中退することは、父を裏切るような思いがしましたが、父はぼくを赦してくれたのです。

 新約聖書によると、イエスが逮捕されたとき、弟子のペトロは、「イエスなんて男は知らない」と三度繰り返しました。じつは、イエスは、いわゆる「最後の晩餐」のあと、このことを予告し、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と語っていたのです。

 ペトロは、逮捕されたイエスに遠くからこっそりついて行きますが、ある人からイエスの仲間ではないかと問われると否定します。すると、鶏が鳴きました。

 その人から重ねて問われますが、重ねて否定します。まわりの人びとからも問い詰められますが、それでも否定します。そのとき、もう一度鶏が鳴きました。そのとき、ペトロはイエスの予告を思い出し、どっと泣き出しました。

 けれども、イエスはペトロのことを知らないと見捨てませんでした。イエスはこのあと十字架につけられ殺されますが、復活した、と聖書は物語ります。そのさい、天使が、「イエスは復活して、ガリラヤという場所で、ペトロを待っている」と告げるのです。

 自分のことを三度も否定したペトロを、イエスの方は否定することなく、赦したという美しい話を聖書は伝えているのです。

(マルコ14:66-72)
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