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「リーダーではなくサーバントに」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(95)

「リーダーではなくサーバントに」

 サーバントは「召使い」の意味ですから、サーバント・リーダー・シップという言葉は、「リーダーは、まず相手に奉仕し、その後、相手を導くものである」という考え方を表わす、とネットにありました。
 
 ようするに、社長は上から威張り散らすよりも従業員に奉仕するような態度の方が会社をうまく導ける、部長も部下に謙虚にサービスする方が良い上司になれる、ということでしょう。
 
 けれども、ここには、大きな問題があります。それは、サーバントになることはリーダーとして君臨することの手段に過ぎない、社長が従業員に奉仕するのも社長の座を確かにするため、部長が部下にサービスするのも同じ目的に過ぎない、という点です。ほんとうはサーバントではなくリーダーになりたいのです。
 
 新約聖書を見ますと、イエスは、似たようなことを言っています。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。
 
 この言葉を文字通りに解すれば、サーバントリーダーシップと同じことで、「すべての人に仕える者になる」ことは「いちばん先になる」ための手段ということになります。
 
 けれども、キリスト教ではそうは考えません。イエスはのちに十字架で処刑されます。つまり、社会の最底辺に落とされる、死刑囚という召使いや奴隷以下の位置に落とされますが、それは、イエスがリーダーとして君臨するためだとはキリスト教では言いません。リーダーになるとかならないとかではなく、ただ、イエスがわたしたちの一番下に置かれたと受け止めるのです。
 
 西日本の豪雨による過酷な被害。そこには、多くのボランティアが駆け付けています。クリスチャンたちもそうしています。ただひたすら被災者に仕えようとしています。仕えることでリーダーになろう、サーバントリーダーシップを発揮しよう、などとは考えていないのです。リーダーになるのではなく、ただサーバントになろうとしているのです。イエスがそこに置かれたように。
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