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イエス様とともに神様に愛される [今週の言葉]

 イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。洗礼は神様に罪を赦され、新しく生まれ変わって生きることを意味しますが、神の子イエス様にも罪があったのでしょうか。神様が私たち人間と同じ「肉」を引き受け、人間の子として生まれてくださったのがイエス様であるならば、イエス様は私たちと同じ罪をもその身に引き受けてくださったのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネのもとには、たくさんの人々が集まったと言います。この人々は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)というヨハネの呼びかけに応じて、罪を告白し、洗礼を受けたのです。イエス様も洗礼を受ける時、この人々と同じ立場に立たれたのではないでしょうか。神様中心、隣人中心ではなく、自己中心となり、また、神様を完全に信頼することができず、時に神様のみ心から離れたことをなし、そして、隣人を赦すことができず、傷つけてしまう、そのような罪深い私たちとともに悔い改めて、罪を告白し、神様の国を受け入れようとされたのではないでしょうか。イエス様は私たちとともに罪を担うために、そして、罪を赦されるために洗礼を受けられたのです。
 さて、イエス様が洗礼を受け、水の中から上がられた時、「天が開き」、「神の霊が降って来た」((3:16)と言います。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」(3:17)という声が天から聞こえたと聖書は記しています。
 これは、洗礼を受けたイエス様が神様の国に受け入れられたことを示しているのではないでしょうか。「天が開く」とは神様の国の門がイエス様に向かって開かれたことを示し、天から神の霊が降るとは、神様の国と私たちの間に通路ができたということではないでしょうか。
イエス様は私たちと同じ立場に立ち洗礼を受けて下さいました。つまり、私たちの罪深い姿は洗礼を受けるイエス様という一点に絞られていったのですが、逆に、イエス様に向かって天が開かれ聖霊が降る時、神様の国はイエス様という一点を通して、私たち全体へと開かれてきたのではないでしょうか。
 イエス様が洗礼において私たちと同じになって下さったことによって、私たちはイエス様が神様から受ける愛にともにあずかることができるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声を、私たちはイエス様と一緒に聞くことが赦されているのです。


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