SSブログ

招かれない人を招く [使信]

2021年7月25日 マタイ9:9-13 「招かれない人を招く」

おはようございます。わたしは、子どものころ、よくけんかをして泣いていました。大人になってからも、けんかをしないわけではありませんが、さすがにもう泣きません。子どものころ、わたしはいじめられていたわけではないし、あきらかな仲間外れにあっていたわけでもありませんが、なんとなく、林はどうも、という空気があったかもしれません。

今も、わたしは、いつでもどこでも誰にでもさわやか、というような人間ではありません。わたしのことを、とっつきにくい、と感じる人もいるようです。わたしの方も、わたしは今ここにいてよいのかな、わたしは今ここで受け入れられているのかな、わたしはここでは招かれていない客ではないのかな、と感じることもあります。まぶね教会ではそんなことはなく、ここにいるのは当然という顔をしていますが。

もしかしたら、わたしたちには、わたしはこの世界にいてはいけないのではないかとか、わたしは生きていてはいけないのではないかとか、そういう思いがどこかにあるのかもしれません。いかがでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書9章9節です。9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

収税所とあります。二千年前イエスがいたユダヤはローマ帝国に支配されていて、ローマ帝国がユダヤ人から税をとりたてる収税所が各地にあったようです。ユダヤ人でありながらローマ帝国の手先となってそこで税金を取り立てている徴税人と呼ばれる人びとは、このことに加えて、決められた税額以上に取り立てたり、ユダヤ人から見れば神を信じないローマ人とつきあったりしていたので、ユダヤ社会では嫌われていたようです。

しかし、イエスはマタイという徴税人に声をかけました。マタイによる福音書の著者自身のことかも知れません。「わたしに従いなさい」。こんなことは初めてでした。マタイは、嫌われこそすれ、誰からも招かれたことはありませんでした。しかし、イエスは言います。「わたしに従いなさい。わたしはあなたを招きます」。すると、マタイは、立ち上がってイエスに従った、とあります。

それまでは、マタイは座っていたとあるのに、イエスに「わたしに従いなさい」と声をかけられると、立ち上がったと言うのです。座っていたが、立ち上がった。イエスの言葉は、地面に座り込んでしまっている人、立ち上がれないでいる人を、立ち上がらせる力があるのです。

ところで、イエスに従うとはどういうことでしょうか。これは、一度思い込んでしまえば、けっして考えを変えない、とうことではないでしょう。一度そうだと思ったことを曲げないのは強い信仰のように思われますが、そうでもありません。

わたしは、暖かいという漢字の左側は目と書くと思い込んでいました。それがじつは日だと気づいたのは、つい最近です。おそろしいものですね。五十年間、暖かいという漢字を書き間違っていたのです。けれども、漢字のテストの時、採点をする学校の先生もわたしのミスにずっと気づかなかったのではないでしょうか。わたしは、漢字のテストの点数では得をしたかもしれませんが、漢字を覚えるという意味では損をしたのかもしれません。

イエスに従う、さらに言えば、神を信じる、ということは、一度思い込んだことを変えないということではなく、むしろ、自分は正しくないかもしれないと、つねに自分を点検し、自分が変わる用意があることではないでしょうか。神を信じるということは、自分が信じたことを絶対に変えないということよりも、むしろ、自分をつねに点検し、変わっていくことでありましょう。

イエスに従っていくとか、神を信じるとかいうことは、自分の信念に従っていくことではありません。自分の信念ではなく、あくまで、イエスに従い、神に従うことなのです。神を信じるとかイエスに従うとかいうことには、神は正しいお方なのだから、その神を信じるわたしも正しいと思い込んでしまう罠が潜んでいるのです。わたしたちはイエスに従い神を信頼することは大切ですが、イエスはこうであり神はこうであると自分で決めつけ、その自分の信念に拘り続けてはならないのです。

10節です。9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

「徴税人や罪人」とあります。罪人とは、旧約聖書にある律法を守らない人々というレッテルを貼られ、当時のユダヤ社会から斥けられていた人々です。徴税人も、律法では偶像崇拝は禁じられているのに、偶像崇拝者であるローマ人とつきあっているということで、罪人に数えられていたようです。

ファリサイ派とは、イエスの時代のユダヤ社会の宗教者で、彼らはある人々について「この人々は律法を守っていない」罪人だと烙印を押していたようです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」という言葉にもそれが現れています。

しかし、イエスは、ファリサイ派の人々が斥け、社会の人々もそれに同調して差別した徴税人や罪人と呼ばれる人々と食事をともにしました。

13節です。9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

ファリサイ派の人々は、律法を盾に、いけにえの動物を買って神殿に納めることを人々に強要していたかもしれませんが、イエスにとっては、そんなことよりも、社会から斥けられている人々に対して憐れみの心を持つことが、神にとって喜ばれることだったのではないでしょうか。

けれども、この場合の憐れみとは、上から目線で「かわいそうに」と思うことではないでしょう。自分をその人より上に位置付けながら、その人を自分より下に置き、ああかわいそうに、ということではないでしょう。

そうではなく、憐れみとは、ともに苦しむこと、同じ位置でその人と一緒に苦しむことではないでしょうか。神が求めるのは、律法に従ってどれだけの義務を果たすかというようなことではなく、相手と同じところに立とうとして、相手の痛みに寄り添うことではないでしょうか。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とあります。

ここで言う「正しい人」とは、まことの意味で正しい人というよりは、世の中で「正しい」とされている人でありましょう。そして、「罪人」とは、やはり、世の中で「罪人」とされている人のことでありましょう。ただし、自分で自分の悪に気づいてそれを深く受け止める人も含まれるかも知れません。

ようするに、イエスは、世の中では招かれない人を招くのです。わたしたちが、自分は世の中で招かれない人間だ、世の中にいるべきでない人間だと悲しんでいるとするならば、しかし、イエスは、そのようなわたしたちを招いてくれるのです。

わたしたちは、招かれない人をイエスが招いていることを覚えたいと思います。イエスは子どもを招き、女性を招き、病気の人を招き、「障害者」と呼ばれる人々を招きました。わたしたちは、このイエスに従い、わたしたちの社会で居場所のない人たちの場所として、教会という場をわかちあうことはできないでしょうか。

 わたしたちは、イエスとともに、子どもたち、男性社会で苦しめられている人たち、病気で苦しむ人たち、「障害者」と呼ばれる人たち、この社会で居場所のない人たちを招く教会となることはできないでしょうか。

わたしは人に招かれていないような気がするときはありますが、神からは招かれていないように思うことはありません。それは、わたしが信仰深いからではなく、社会からは招かれないわたしを神は招いてくれると聖書が教えてくれるからです。招かれないわたしたちを神は招いてくれる、そのことを喜んで、今週もともに歩みましょう。

祈り:神さま、わたしたちは多くの人々を自分の社会から斥けていますが、あなたはその人びとを招いておられます。わたしたち自身も、社会から招かれていないのではないか、ここにいてはならないのではないかと不安ですが、あなたはわたしたちをここに招いてくださいました。心から感謝いたします。神さま、いま居場所のない人びとをあなたが招いてください。人が斥けようともあなたはけっして斥けないといううれしい知らせを伝えてください。イエスによって祈ります。

nice!(0) 

nice! 0