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人生を信じる [使信]

2021年6月27日 マタイによる福音書6:25-34  「人生を信じる」

おはようございます。60歳のわたしのところにも、コロナワクチンの接種券が送られてきました。7月に打つつもりです。しかし、今日の聖書の一節に「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とあるように、これで、寿命が延びるかどうかは定かではありません。ただし、人様にうつしたり、自分が高熱で何日も苦しんだりするリスクは、できれば避けたいと思います。

ところで、神を信じる、とはどういうことでしょうか。ひとつは、神は存在する、まちがいない、と信じることのように思えます。しかし、聖書では、神を信じるということは、ただ神の存在を信じるだけのことではありません。聖書では、神を信じるとは神を信頼することです。

たとえば、皆さんがここにいる誰かを・・・たとえば、この人でもよいですが・・・この人を、信じるとします。それは、この人がここに存在することを信じるということではありません。皆さんが信じようが信じまいが、この人がここに存在することは間違いないのですから。皆さんが、この人を信じるということは、この人を信頼する、この人の人柄を信頼するということなのです。

神についても同じではないでしょうか。神を信じるということは、神の存在を信じるというよりも、神を信頼する、神の人柄、いや、神の神柄を信頼するということではないでしょうか。

さらに言えば、わたしたちが神を信じるということは、わたしたちが自分の人生を信じるということです。あるいは、わたしたちがわたしたちの生きている世界を信じるということです。神を信じるということは、わたしたちの人生にはいろいろなことが起こるけれども、苦しいことも、耐えられないことも起こるけれども、大丈夫だと信じることです。

苦しいこと、耐えられないことが解決するかどうかはわかりませんが、それでも、わたしたちの人生は大丈夫だということです。わたしたちが生きている世界には、苦しいことも、耐えられないことも起こるけれども、それでも、わたしたちの生きている世界は大丈夫、世界はわたしたちを支え続けると信じることです。

わたしたちは、わたしたちの人生やわたしたちが生きている世界を信じる、信頼することができるでしょうか。わたしたちは、いつも不安や心配を抱えていないでしょうか。

たしかにそうです。しかし、それでも、わたしたちは案外、わたしたちの人生や世界を信頼しています。皆さんは、今日教会までの道のりを歩いてきたり車で来たりするとき、道路が沈むかもしれないと心配していたでしょうか。いや、無意識のうちに、道路はわたしたちが歩いても車で進んでも沈まないと信頼しているのではないでしょうか。

皆さんは、夜寝るとき、このベッドの床が抜けてしまうのではないか、この畳の床が沈んでしまうのではないかと不安になるでしょうか。いや、無意識のうちに、ベッドやふとんはわたしたちの体を支えてくれると信じ切っているのではないでしょうか。

わたしたちが歩く道や、わたしたちが横たわる床を信じる感覚を、わたしたちの人生やわたしたちの世界にも持つことが大切だと思います。わたしたちは、わたしたちが今身を置いているこの世界の底は抜けないと信じることが大切です。神を信頼するとは、わたしが今生きているこの世界の底は抜けないと信じることと同じことではないでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書6章25節です。6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

ここで命は食べ物より大切、体は衣服よりも大切とありますが、ぎゃくに、命を守るためには食べ物が、体を守るためには衣服が大切でありましょう。イエスは、他の個所では、人びとと一緒に食事をすることを大切にしています。食糧が欠けている人びとの前で、ある神父さんは、神を求める祈りとどうじに、食糧を求める祈りも大切だと言っていました。

では、イエスはどういう意味で、命は食べ物よりも大切、体は衣服よりも大切、と言っているのでしょうか。わたしは、命や体というものは、わたしたちの根本だと思います。根本というのは、さきほどわたしたちが歩く道やわたしたちが横たわる床にたとえた、世界の底、わたしたちが立っている世界の底板のことです。

食べ物や飲み物、着るものは、残念ながら欠けることがある、しかし、それでも、命と体がある、世界の底は抜けない、だから、世界を信頼しよう、神を信頼しよう、というメッセージをわたしは受け取りました。

26節です。6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

ここで鳥は何も働かないように言われていますが、じつは、鳥は、巣を作ったり、餌を探したり、子どもたちに食べさせたりしていますよね。ですから、ポイントは、鳥は何もしないということではなくて、神が鳥を養っている、支えているということでしょう。

ところで、わたしたちは鳥よりも価値があるものなのでしょうか。たしかに、わたしたちは、鳥より大きいです。鳥より図体はでかいです。もっとも、ダチョウなんかよりは、小さいかもしれませんが。まあ、ダチョウは空の鳥というよりは、地の鳥かもしれませんが。いずれにせよ、わたしたちが鳥よりも価値があるというよりも、神の目には、鳥もわたしたちもとうとい、価高いということでありましょう。

27節です。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

寿命をわずかでも延ばすことができるかどうかはわかりませんが、わたしたちは病気になれば治療を受けます。ワクチンも打ってもらいます。病気のことについては、医療従事者とわたしたちの判断が大事でしょう。

けれども、病気のことというよりも、いのちそのもののことは、わたしたちは神におゆだねしようではありませんか。いのちそのものは、たとえどんなことが起ころうとも、神に委ねようではありませんか。そして、人生についても、これから先のこと、家族のこと、そして、わたしたちの死についても、これは、神を信頼して、神に委ねようではありませんか。

31節です。6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

思い悩むな。イエスはこう言います。思い悩むな。委ねよ・・・委ねるしかないのです。しかし、委ねることはあきらめることではありません。委ねるとは、むしろ、希望を抱きしめることです。神という希望を強くだきしめることです。いや、神という希望にわたしたちが抱きしめられることです。

委ねることは難しいことのように思えますが、じつは、わたしたちの体は自身をすでに神に委ねているのではないでしょうか。あとは、わたしたちの心が自身を神に委ねることではないでしょうか。

32節です。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

神はわたしたちに必要なものをご存じだとイエスは言います。患者の祈り、あるいは、病者の祈りと呼ばれる祈りの中にはこうあります。「求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた」「求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた」。この場合、願いはすべてかなえられた、とは、必要なものはすべて備えられたということでしょう。

神の国と神の義を求める。これは、どういうことでしょうか。これは、神がわたしたちとともにおられることに気づくことでしょう。その神が、この世界を、わたしたちの人生を治めてくださる、導いてくださる、支えてくださる、愛してくださる、と信頼することでしょう。そして、この神を信頼する、この神に委ねることでしょう。

わたしたちの人生において、たとえ、食べ物も飲み物も着るものもないようなことがあろうとも、あるいは、心や体が打ちのめされるようなことがあろうとも、もう生活が立ち行かないようなことがあろうとも、それでも、神の国と神の義がここにあるのです。それでも、神の国と神の義が、わたしたちに命と体を与えてくれるのです。

この神、この神の恵みを、わたしたちは信頼して、今週も歩んでいきましょう。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちに命と体を与えてくださいました。神さま、あなたはわたしたちを治め、導いてくださいます。それゆえに、あなたはわたしたちの根本です。わたしたちの世界や人生がたとえ大きく揺れ動くことがあっても、あなたという根本はけっして倒れることがない、あなたという底板は抜けることがない、とわたしたちはあなたを信頼します。神さま、衣食住で苦しむ友、病気、仕事、人間関係、人間としての尊厳において深い傷を負っている友がいます。どうぞ、あなたが友とともにいて、お支えくださいますように。わたしたちもその場に導いてください。イエスによって祈ります。


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