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あわいの愛 [使信]

2021年5月9 日 マタイ6:1-4   「あわいの愛」

おはようございます。今日の使信は「あわいの愛」という題にしました。「淡い初恋 消えた日は 雨がしとしと降っていた」、あの淡い愛のことではありません。人と人との間の愛、人と人とのあわいにある愛のことです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書6章1節です。6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

「善行」そして「施し」という言葉が出てきますが、どちらも同じことを指しているのでしょう。イエスは、それを、人様に見てもらおうと思わないように気をつけよ、人様に見せびらかそうと人様の前でしないように気をつけよと言います。そうやって、人様からほめられると、もうそこで、褒美をもらっていることになるから、神からは何もいただけない、と言います。だから、施しをするときは、皆さん、これからわたしは良い行いをしますよ、皆さん、ここに集まって、よく見ていてください、などと宣伝ラッパを吹き鳴らしてはならない、と言います。

わたしは、自分はこうやって毎週皆さんの前で話をしますが、他の牧師の説教を聞くのはあまり得意ではありません。わたしの父親も牧師でしたが、彼の説教などほとんど聞いていませんでした。けれども、いくつかですが、覚えていることもあります。

その一つはこんな話でした。電車の中で困っている人がいて、誰かがその人を助けたそうです。そこに、電車の車掌さんが来て、その親切な人に、どうもありがとうございました、と言ったそうです。そうすると、その親切な人は、いいえ、こんなことはあたりまえです、わたしはクリスチャンですから、と答えたそうです。すると、車掌さんは、感謝していた表情を曇らせ、クリスチャンでなくても、これくらいのことはしますよ、とつぶやいたそうです・・・この車掌さんも大人げないと言えば大人げないのですが、わたしの記憶には、クリスチャンの偽善は良くない、ということが刷り込まれてしまいました。

クリスチャンが皆偽善者であるなどとはちっとも思いませんが、わたしを含むわたしたちの多くは、人から良く思われたい、あの人はいい人だと思われたい、人からえらいと認められたい、そういう気持ちを持っているのではないでしょうか。

3節です。6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」、これはどういう意味でしょうか。自分がこんな良いことをしたなどと人に伝えてはならない、自慢してはならないということでしょうか。あるいは、人に言わなくても、自分の心の中でも、自分はこんなに良いことをしたなどと思ってはならない、ということでしょうか。

わたしたちが苦しんでいる隣人と一緒にいるのは、自分が誰かから認められるためでもなく、ほめられるためでもなく、あるいは人知れず自己満足を得るためでもなく、相手のためにそうすべきなのです。自分のためにではなく、相手のためにです。しかし、何が相手のためになるのかも、わたしたちが自分で決めつけてしまってはならず、相手が本当に求めているものは何か、相手の姿から慎重に想像する必要があるのではないでしょうか。

4節です。6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

自分のなした施しが人に見てもらえなくても、神さまが見ていて、ご褒美をくださる、そう言っているように、この言葉は聞こえるかもしれません。しかし、わたしたちは、神から報いられたいでしょうか。神から褒美をもらいたいでしょうか。

神が見ていてくださるだけで、神が知っていてくださるだけで、わたしたちは救われているのではないでしょうか。わたしたちの苦労を、しかし、苦労と言っても、そんなに立派なことをしているわけでもなく、そこには、じつは、わたしたちの弱さやずるさや悪さがまじっていることをも神は知っていてくださる、それで十分ではないでしょうか。

最近、この本を読みました。あとでロビーに置いておきますので、よろしければ、ご自由にお読みください。「『利他』とは何か」という本です。利他とは、他者を利する、という意味です。

 この本には、ドキッとすることが書かれています。たとえば、「他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながる」と書かれています。皆さん、いかがですか。心当たりはありませんか。わたしはおおありです。

こんな言葉もありました。「相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せずに、常に相手が入り込めるような余白を持っていること」。わたしなど、相手を助けるようなさいに、相手はこれからこうなるだろう、などと計画を立ててしまいます。でもそうすると、相手の意志とか、相手の偶然性とかが、そこから締め出されてしまって、まさに、わたしのためになってしまうのです。

では、どうしたらよいのでしょうか。この本には、利他についてさらにこんなことも書かれていました。

「利他における『他』は、自分以外の他者ではなく、『自』と『他』の区別を超えた存在ということになります」(p.113)。

利他とは、自分が他者を利すること、ではないと言うのです。そうではなく、自分と他人が自分と他人のままでありながら、たがいに結ばれたものになることだと言うのです。

さらには、こうあります。「利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。それが他者によって用いられたときに現出する。利他とは、自他のあわいに起こる『出来事』だともいえます」(p.126)。

わたしは他者を利するために他者と一体になろう、などと思ってしまうところには、利他は生じないのです。一体になろうとすれば、相手を自分の中に取り込んでしまい、自分だけが残り、他者は死んでしまいます。

私にできることがあるとすれば、他者と一体になろうなどとせず、むしろ、他者との間、他者とのあわいを持とうとすることではないでしょうか。そして、そのあわい、その間こそが、愛が働く場、神が働く場なのです。

自分が褒められるための善行や施しは、相手を飲み込んでしまうことです。そこには、相手との間が存在しません。しかし、愛とは、相手を飲み込まず、自分は自分、相手は相手のままで、自分と相手のあわいに働く愛、自分と相手の間に働く神によって、ばらばらではなくたがいに結ばれることではないでしょうか。

わたしたちは、隣人を愛したいと思いますが、相手を飲み込まず、わたしたちと隣人の間、わたしたちと隣人のあわいを大事にしようではありませんか。なぜなら、そのあわいにこそ、神の愛が働くのですから。

祈り:神さま、わたしたちは自分を見せびらかせ、自分がほめられようとしてしまいます。そして、そうすることで、相手を自分の中に飲み込んでしまいます。けれども、神さま、あなたが愛として働いてくださるように、相手とのあわいを大事にすることができますように。神さま、苦しんでいる人、悲しんでいる人、不安な人がいます。神さま、そういう人々、そういうわたしたちの間に、あなたの愛がみなぎりますように。イエスによって祈ります。アーメン。

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