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神のふところ [使信]

2021年5月2日 ヨハネ14:1-11   「神のふところ」

おはようございます。今日の使信には「神のふところ」という題をつけましたが、これは、残念ながら、神さまの懐具合、お財布のお話ではありません。では、いったいどういうお話なのでしょうか。

今日のヨハネによる福音書の個所では、イエスは、「心を騒がせるな」と言っています。たしかに、わたしたちの心は騒いでいます。騒ぎ立っています。コロナウィルス感染も不安ですが、それ以前から、わたしたちひとりひとり心配を抱えて生きていました。

たとえば、この会社に入れば生涯大丈夫、こういう仕事につけば一生大丈夫、そういうものは、十年、二十年前からなくなりつつあります。こうすれば大丈夫というものがない、これを社会が液状化しているという人もいます。世の中が、固まった固体ではなくなり、液体のように不安定になってしまったということでしょう。わたしたちの人生は、イエスのたとえで言えば、もはや、岩ではなく砂の上に建てられた家のように不安定だということになるでしょう。

そういうわたしたちに、イエスは「心を騒がせるな、神を信じなさい」と言います。では、心を騒がせるわたしたちは神を信じていないのでしょうか。神を信頼していないのでしょうか。そうとも思われますが、かならずしもそうでもないとも思われます。

心を騒がせない。神を信頼する。たしかに、これは、なかなかできません。できませんが、憧れます。憧れることはとても大切です。吉永小百合さんのようになりたい。でも、わたしたちはわたしたちであって、吉永さんにはなれませんよね。けれども、吉永小百合さんに憧れることで、わたしたちは幸せではないでしょうか。

心を騒がせない。神を信頼する。わたしたちは、なかなかそうはできないけれども、心を騒がせない、神を信頼することに憧れる、それを慕い求める。ここに、わたしたちの信仰生活の幸せがあるのではないでしょうか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書14章1節です。14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とイエスは言います。イエスを信じるとは、イエスが教えてくれる神を信じるということではないでしょうか。イエスがわたしたちに、信頼することのできる神を教えてくれる。そのような信頼できる神にわたしたちが憧れる、慕い求めるということではないでしょうか。

イエスは「神の国は近づいた」と教えてくれました。わたしたちは、この世の中の目に見えるさまざまな出来事に心を騒がせていますが、イエスは、この世の中には、それだけでなく、神のお治めがある、神の愛がある、それは、そんなに遠いところではなく、すぐ近くにある、気がつけばそこにある、とイエスは教えてくれるのです。

イエスは「野の花を見よ、空の鳥を見よ」と教えてくれました。イエスは、野の花、空の鳥を見れば、信頼できる神の力がそこにあることがわかる、と教えてくれているのではないでしょうか。

2節です。14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

父の家とは何でしょうか。今日は、最初に「ふところ」のお話をしましたが、わたしは、父の家とは、じつは、神のふところのことのように思ったのです。

最近、詩人の茨木のり子さんの本をいくつか読んでいます。その中で、茨木さんは、藤沢周平さんの時代小説が好きで、それをもとにし真田広之さんが幕末の下級武士を演じた「たそがれ清兵衛」という映画もお好きだそうです。茨木さんは医師だった夫に四十代で先立たれていますが、夫は真田広之さんに少し似ていたそうです。わたしも、真田広之さんに似てみたかったと思います。

そういう時代劇では、お金でも、書付でも、なんでもふところに入れるのです。結構な量が入るようです。ドラエモンのポケットのようです。神のふところも、あのように深いのではないでしょうか。何でも、誰でも入るのではないでしょうか。懐という漢字には、抱く、思うという意味があります。神は、わたしたちを抱き、わたしたちを深く思ってくださるのではないでしょうか。

旧約聖書のイザヤ書40章11節にこうあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。神は、心を騒がせるわたしたちを、小羊のように、ふところに抱き、深く思ってくださるのではないでしょうか。

ヨハネによる福音書に戻りまして、14章3節です。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

イエスはわたしたちのために神のふところに場所を用意してくれる、わたしたちをそこに迎えてくれる、と言います。これは、わたしたちは、イエスに教えられ、導かれることで、わたしたちが神のふところにいることを知るということでしょう。これは、神はふところが深いことを、神はわたしたちを抱いてくださることを、神はわたしたちを深く思ってくださることを、イエスが教えてくれ、わたしたちは、神のふところへと導かれるということではないでしょうか。

 6節です。14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

イエスは道である。これは、イエスが神のふところへの道になってくれるということではないでしょうか。イエスは真理である。真理とはまことであり誠実です。神は心を騒がせるわたしたちを迎えてくださるまことなる存在です。イエスが真理であるとは、イエスが神のまことをわたしたちに指し示してくれるということではないでしょうか。イエスは命である。わたしたちは誠実な神のふところに迎えられ生かされています。命を得ています。イエスが命とはこういうことではないでしょうか。

10節です。14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

「わたしが父の内におり」とあります。イエスは神のふところにいるのです。しかし、それに続けて、「父がわたしの内におられる」とあります。神もイエスのふところにいるのです。神もイエスの心の深いところにおられるのです。

わたしたちも同じではないでしょうか。わたしたちも神のふところにいるのです。わたしたちは神に抱かれているのです。わたしたちは神の深い思いの中にいるのです。そして、神もわたしたちのふところ、わたしたちの心の一番深いところにおられるのです。わたしたちは神を抱きしめているのです。

わたしたちの心は騒ぎ立ちます。それにもかかわらず、神は、わたしたちの騒ぎ立つ心まるごと、神のふところに入れてくださいます。この神を信頼できるようになりたい、心を騒がせたくない、と切望し、憧れ、神を信頼し心を静かにすることができるように、絶えず祈り求めつつ、今週も、わたしたちはともに、イエスとともに、神とともに歩みましょう。

祈り:神さま、わたしたちの心はすぐに騒ぎ立ちます。しかし、あなたは、そのわたしたちを、ふところに迎えてくださいます。神さま、あなたのふところにあって、わたしたちの心が静まり、あなたの平安をお招きすることができますように、わたしたちをお導きください。神さま、心の嵐に苦しむ友がいます。どうぞ、あなたのふところに迎えてください。ここがあなたのふところであることに気づかせ、友にシャロームをもたらしてください。イエスによって祈ります。アーメン。

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