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「トラブルド・ウォーター」 [使信]

2020年7月26日 ヨハネ6:16-21  「トラブルド・ウォーター」

 おはようございます。今日の使信には「トラブルド・ウォーター」という変な題をつけてみました。トラブルです。トラベルではありません。最近ニュースによく出てくるゴー・トゥー・トラベル・キャンペーンとは何の関係もありません。

 トラブルド・ウォーターという言葉を聞いて、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」という歌を思い出した方もおられるのではないでしょうか。「明日に架ける橋」という歌の原題はBRIDGE OVER TROUBLED WATERと言います。トラブルド・ウォーターに架けた橋、という意味です。

 トラブルド・ウォーターのトラブルには、辞書を見ますと、「悩ませる」「心配させる」「乱す」「荒らす」「かき回す」というような意味があります。つまり、トラブルド・ウォーターとは、荒波、激流のことなのです。そして、これは、人生で生じる苦しい出来事の比喩なのです。

 サイモンとガーファンクルの歌の歌詞には、Like a Bridge Over Troubled Water, I will lay me down.とあります。これは、人生が荒波を立てても、きみが渡れるように、ぼくは我が身を横たえて、橋になろう、というような意味だと考えました。

 トラブルド・ウォーター、人生の荒波、人生の激流。じつは、聖書には、トラブルド・ウォーターの伝統があります。イスラエルの民がモーセとともにエジプトを脱出し、エジプト軍から追われていたとき、行く手には海が立ちはだかっていました。トラブルド・ウォーターです。困難の海です。けれども、神はイスラエルの民の架け橋となり、そこを渡らせました。

 モーセからヨシュアの代になり、イスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、水は堤を越えんばかりの激流でした。トラブルド・ウォーターです。しかし、そのとき、水流が壁のように立ち上がって止まってしまい、民はヨルダン川を渡ることができました。

 わたしたちの人生もまた、このトラブルド・ウォーター、人生の激流の伝統にありますが、同時に、神の架けてくれた橋を渡ることが許される伝統にも生かされています。

 病気、仕事、家族のこと、人間関係、信仰、精神。わたしたちは、人生の激流に見舞われてきました。もうこの川は渡れない、もうこの海は渡れないという出来事も、ひとりひとりが経験してきました。

 わたしの友人には仕事がありません。収入がありません。同時に、自分の場、世界における自分の場がないような思いにさせられてしまいます。理不尽にも仕事の機会を与えられなかったり、仕事を奪われたりしている友人がいます。けれども、なんとか橋を見つけ、向こう岸に渡ろうとしています。

 病気の友人もいます。ご本人は気落ちしていませんが、この一、二年、入退院を繰り返しています。やはり、なんとか橋を見つけ、向こう岸に渡ろうとしています。

 わたし自身も、いくつかのトラブルド・ウォーターを経験してきましたが、振り返れば、その都度、神が橋を架けてくれた、神が橋になってくれた、と信じます。この牧師はどんなことを経験してきたのか、気になる人もいるかもしれませんが、履歴書には書きませんでした。学歴欄と職歴欄だけで、トラブルド・ウォーター経験歴を書く欄はありませんでしたから。もっとも、履歴書にそんな欄があったら、私は今ここにはいないかもしれません。

 じつは、昨日、カリフォルニアに移住して長年になる叔母が天に召されました。わたしの母の妹に当たります。母とこの叔母の母、つまり、わたしの祖母は夫に苦労させられたそうです。しかし、娘たちふたりには神を信じるようになってほしいと、母をプロテスタントの女子大に、叔母をカトリックの女子大に行かせたそうです。叔母は大学卒業後、アメリカ西海岸に移住し、ユダヤ系の人と結婚し、ふたりの子どもが生まれました。しかし、まもなく離婚して、ふたりは父親に引き取られ、ユダヤ系のコミュニティで育ったようです。こうして、わたしのファミリーヒストリーには、プロテスタント、カトリック、そして、ユダヤ教も登場します。いずれも、聖書の民ではありますが。

 母は牧師などと結婚してしまい、牧師になるような息子を持ってしまったので、その人生は、トラブルド・ウォーターだったのではないでしょうか。叔母も、アメリカへの移住や結婚、離婚でそうとう苦労したようです。娘たちが成人するまでは、娘たちと会えなかったのではないでしょうか。叔母の人生もトラブルド・ウォーターだったのではないでしょうか。けれども、昨日、カリフォルニアから来たEメールには、She went peacefully. やすらかに行ったよ、とありました。娘ふたりと、長年連れ添ってきた二度目の結婚相手につきそわれて、もうすぐ天の母さんと姉さんに会えると言いながら、しずかに架け橋をわたったようです。

 わたしたちは、どういうふうに、トラブルド・ウォーターを渡ることができるのでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書6章16節です。「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った」。

 夕方になりました。闇が始まります。弟子たちは、闇が忍び寄る中、湖へとおりていきます。けれども、これは、新しい何かの始まりなのかも知れません。なぜなら、いにしえのイスラエルの人びとは、夕方から一日が始まると考えたからです。

 17節です。「そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」。

 湖とは何でしょうか。湖とはわたしたちの人生のことでしょうか。ならば、湖の向こう岸とはどこのことでしょうか。わたしたちはどこに向かう舟に乗っているのでしょうか。仕事や私生活の大きな目標に向かってでしょうか。人生の終わり、地上からの旅立ちに向かってでしょうか。神を信頼して、地上を歩みぬき、神を信頼して、神のもとに帰る、そのような向こう岸にわたしたちは向かっているのでしょうか。既に暗くなってきたとあり、イエスはそこにはいなかったとあります。大丈夫なのでしょうか。

 18節です。「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」。

 トラブルド・ウォーターです。大丈夫なのでしょうか。

 19節です。「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた」。
 
 岸から5キロくらいのところです。簡単には引き返せません。思えば遠くまで来たものです。わたしたちの人生と同じです。陸からは遠く離れ、強い風が吹き、荒波が襲い掛かってきます。けれども、イエスが歩いてこちらにやってきます。イエスがトラブルド・ウォーターの上を歩いて、こちらにやってくるのです。

 彼らは何を恐れたのでしょうか。嵐の中で、得体のしれない何かがやってくる、その何かを恐れたのでしょうか。あるいは、それは、嵐そのものへの恐れの現われだったのでしょうか。

 20節です。「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」。

 イエスは言います。「わたしだ。恐れることはない」。「怪しいものではない。わたしだ。恐れることはない」。イエスは言います。「わたしが一緒にいる。恐れることはない」。「わたしがあなたと一緒にいる恐れることはない」

 弟子たちと同じように、わたしたちも、イエスの乗った舟で、向こう岸まで、目指す地まで、トラブルド・ウォーターを渡り続けようではありませんか。イエスがともにいます。恐れることはありません。

祈り:神さま、あなたは、この世界を創り、海と陸を創られました。ですから、わたしたちは荒海を渡り、向こう岸に着くことができると信じます。神さま、どうぞ、その道のりにあって、あなたがともにおられ、海路を切り開いてくださることをも信じさせてください。神さま、友が激流にいます。どうぞ、あなたが橋となってください。イエスによって祈ります。

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