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早く和解を [使信]

2021年6月20日 マタイによる福音書5:21-26  「早く和解を」

おはようございます。今日の聖書では、まず、「殺すな」といわれます。しかし、イエスはそこに留まらず、人に腹を立てる者は人を殺すのと同じく裁きを受ける、と付け加えます。さらにイエスは、人に「ばか」とか「愚か者」と言う者も同じだと言います。

ここまでは、人を殺してはならない、害を加えてはならない、傷つけてはならない、ということのように思えます。けれども、イエスは、そればかりか、傷つけた相手に対して、自分が傷つけたことを認め、謝罪することも勧めているのかもしれません。

ただ、相手を殺さない、傷つけない、罵らないだけでなく、さらに踏み込んで、自分は誰かを傷つけていないか、よく思い出して、そうであるなら、謝罪することを勧めているのかも知れません。法廷に訴えられる前に、仲直りをするとか、和解するとかいうことは、おたがいに歩み寄るというよりも、自分から自分の非を認めて、自分が傷つけたことを認めて、心から詫びることではないか、ともわたしは思いました。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書5章21節です。5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

 「昔の人は」とありますが、これは、律法にはこう書かれている、ということでしょう。旧約聖書の民数記には、人を殺した者は、複数の証言に基づいた上で、死罪の判決を受ける、とあります。イエスのまわりにいた律法学者やファリサイ派の人びとも、これはよく知っていたことでしょう。そして、彼らはもしかしたら、「おれたちは人を殺していないから裁きなど受けない」と思っていたかもしれません。

 それを見抜いていたのでしょうか。イエスはこう続けます。22節です。5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 「おれたちは人を殺していないから裁きなど受けない」と思っているかもしれないが、それで良いというものではない、とイエスは言いたいのかもしれません。

 人を殺していなくても、兄弟に腹を立てる者、人に腹を立てる者は、皆、裁きを受ける。人に「ばか」と言う者は、最高法院、最高裁判所に立たされる、人に「愚か者」という者は、火の地獄に投げ込まれる、神から裁きを受ける、とイエスは言うのです。

 人を殺してなくても、人に腹を立てたり、罵ったりする者は、死刑になる、いや、たましいまでも焼き尽くされるということでしょうか。

 人にばかと言うと、死刑になる、たましいも焼かれてしまう。これは相当きびしい言葉ですが、たしかに、わたしたちは、人を殺していなければそれでよいというものではないでしょう。人に腹を立てたり、罵ったりすることで、わたしたちは、人を相当傷つけてしまうのです。

 ただし、腹を立てる、といっても、自分の意に沿わないことがあって癇癪を起こすということと、人がひどい目に遭っているのを見て義憤に駆られるということは、区別しなければならないでしょう。不正に対しては、人がひどい目に遭っていることに対しては、腹を立てるべきでしょう。ただし、義憤に駆られたからと言って何をしてよいわけでもないでしょうけれども。


これに対して、自分の思うとおりにならない相手に癇癪を起こす、罵る・・・これは、当然、避けるべきであり、イエスがここで、「兄弟に腹を立てる」というのも、このようなわがままで自分本位の癇癪のようなことを言っているのではないでしょうか。

 23節です。5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

 「祭壇に供え物を献げる」とあります。これは、神との関係を良くしようとすることでしょう。しかし、イエスは、神との関係を良くする前に、いや、神との関係を良くしたいのならその前に、人と仲直りをするように言っています。

 しかし、これは、自分が憎んでいる相手をこれからは憎まないようにするということではないでしょう。イエスは、自分に反感を持っている相手と仲直りするように言っているのです。イエスは、ここでは、自分が憎んでいる相手を赦しなさい、と言っているのではありません。

むしろ、自分に反感を持っている相手とは、自分が害を加えた相手のことではないでしょうか。自分が傷つけた人のことではないでしょうか。

 仲直りをする、和解をすると言っても、イエスは、自分が嫌いな人を赦すことを言っているのではありません。わたしには、むしろ、わたしが嫌な思いをさせた相手、わたしが傷つけた相手の前で、それを謙虚に認め、謝罪して、赦してもらう、裁判に訴えることを止めてもらうことを、イエスは言っているのではないでしょうか。今日のイエスの言葉には、敵対関係にある相手と和解する、仲直りするというよりは、わたしが言葉と行いで深く傷つけた人の前で、それを謙虚に認め、謝罪する、という意味があるように思いました。

 わたしたちは、たとえ、相手を殺していなくても、相手に癇癪を起していなくても、ばか、愚か者と罵っていなくても、激しい言葉や行動をとっていなくても、人を傷つけてしまっていないか、人のたましいを苦しめていないか、よく吟味したいと思います。

 最近読んでいる本にこんなことが書かれていました。人を傷つけることは、じつは、自分の中にある堕落をその人に背負わせることなのだ。わたしたちは、自分の暗い心を晴らすために、それが救いであるかのように、人を傷つけてしまう。

わたしはこれを読んで、ああ、なんとわたしは堕落し、それを人に背負わせるために、人を傷つけ、いままた傷つけようとしていることか、そんなことをしても救われないことを知っているのに、仕返しは一瞬の快楽ではあっても救いではないのに、仕返しや恨みは永久の不快なのに・・・と思いました。

 正直に言うと、ばか!とか愚か者!とか言ってやりたい相手がわたしには何人かいます。皆さんのことではありません。ばか野郎!と言ってやれば、すかっとしそうな気がします。しかし、その一瞬のあとには、長い長い苦々しさが続くことでしょう。

 わたしたちが本当に望むことは、仕返しをすることでも、恨みを晴らすことでもなく、むしろ、仲直りであり、和解でありましょう。しかし、そのためには、まず、わたしが自分の非を認めなければならないのです。わたしが自分の非を認めても、相手が赦してくれるか、相手も非を認めてくれるか、それはまったくわかりません。

しかし、わたしたちが望むべきは、相手を自分に従わせることでもなければ、仕返しでも恨みを晴らすことでもなく、仲直りであり、和解なのです。そのためには、わたしが自分の非を認め、謝罪しなければならないのです。

わたしたちは、殺さない人間になりたいと思います。癇癪を起さない者に、ばか、愚か者などと言わない人になりたいと思います。そして、自分が人を傷つけたことを認め、謝罪し、その上で、和解する人間に成長したいと思います。そうなれるように、祈りをもって、肝に銘じたい、つねにあたらしく心に刻みたいと思います。

ところで、ただ一人、殺さず、癇癪を起さず、罵らず、つねに、わたしたちとの和解を求めている方がおられます。それは、神です。神は、わたしたちを殺さず、むしろ、生かし、神は、わたしたちに癇癪を起こさず、むしろ、忍耐し、神は、わたしたちを罵らず、むしろ、愛の言葉を語り、神は、つねにわたしたちと友であろうとしてくださいます。

この神を深く思い、どうじに、わたしたちは、他の人を殺さない生き方をせつに祈り求めようではありませんか。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちを殺さず、かえって、わたしたちを生かしてくださいます。神さま、あなたは、わたしたちに癇癪を起さず、罵らず、かえって、わたしたちを愛してくださいます。神さま、そのあなたにこたえて、わたしたちも、人を殺さない者に、人を傷つけない者に創り変えてください。人を傷つけてしまっていることをあなたと隣人の前で反省できる者にしてください。神さま、今殺されている友、罵られている友と、あなたがともにいて、守り、支えてください。イエスによって祈ります。

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