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塩と光 [使信]

2021年6月13日 マタイによる福音書5:13‐16  「塩と光」

おはようございます。今日の聖書には、地の塩と世の光が出てきますが、皆さんは、地の塩のタイプでしょうか。それとも、世の光のタイプでしょうか。どちらかひとつを選びなさいと言われたら、皆さんは、地の塩になりますか。それとも世の光になりますか。

先週の子ども礼拝では、担当の方がこんなお話をしてくださいました。塩は自分の姿を隠してよい働きをするけれども、光は自分の姿を現してよい働きをする、そういうお話でした。よいお話ですよね。

たしかに、塩は、できあがった料理の中に溶け込んで、自分の姿を隠してしまいます。その働きも、はっきりわかるというよりは、目立たず、しかし、しっかり働いているという性格のものでしょう。はんたいに、光は、その姿をはっきりとあらわし、その働きも、人びとにわかりやすいのではないでしょうか。

塩か光か、どちらかを選ぶというよりも、時と場合によって、両方を使い分けることがよいのではないでしょうか。塩のような姿を隠した目立たない働きは、おくゆかしいのですが、ときには、人に理解されない、人に伝わらないことがあるのではないでしょうか。光のようなはっきりとしたはたらきは、わかりやすいのですが、押し付けがましかったり、目立ちたがりのようになったりしないことに気を付けたほうがよいようにも思います。

さて、今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書5章13節です。5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

塩には、塩味には、どのような役割があるでしょうか。塩は、食糧を腐らせないで保存します。塩は、食べ物をおいしくします。腐らせないで保存する塩の働きは、わたしたちが人びとの人生、人びとの衣食住を大事にする働きとつながるように思います。食べ物をおいしい味にする塩の働きは、わたしたちが人びとの人生に喜びや慰めをもたらす働きにつながるように思います。

ところで、塩には塩味があるのですが、塩に塩味をもたらすのは塩気だと今日の聖書は言っています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」・・・つまり、塩気が塩に塩味をもたらすというのです。

塩がわたしたちであり、塩味がわたしたちの愛の働きだとすれば、わたしたちに塩味、愛の働きをもたらす塩気とは、何のことでしょうか。わたしは、神のことのように思いました。神がわたしたちに愛をもたらし、その愛でわたしたちも他の人を愛するのです。神という塩気が、わたしたちに愛という塩味をもたらしてくれるので、わたしたちも他の人に塩味をもたらす、他の人を愛することができるのです。

14節です。5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

「光を人々の前に輝かす」とは、どういうことでしょうか。山の上にある町は、山の下に住む人びとに、その姿をはっきりと現しています。神も、イエスも、その愛も、山の上にある町と同じくらいに、人びとにはっきりと見えるようにしなければならない。あなたたちはそのための光なのだ・・・このような意味ではないかと考えました。

地の塩になる、いや、地の塩である。世の光となる、いや、世の光である。これは、言い換えれば、わたしたちが神の善の器になる、神の愛の器になる、いや、器であるということでありましょう。
わたしたちは、人を傷つける言葉、人を憎む言葉ではなく、人をいたわる言葉、人を愛する言葉によって、神の愛の器でありたいと祈ります。あるいは、神の愛を語る言葉、神の愛を伝える言葉によって、神の愛の器でありたいと祈ります。

あるいは、パウロがガラテヤ書で霊の実りと呼んだ「平和、寛容、善意、誠実、柔和」、そのような行為によって、つまり、愛ある行為によって、神の器でありたいと祈ります。

それは、誰かにほめられるためではありません。人びとにほめられるためではありません。それは、神に救われるためではありません。愛の行為、神の愛の器としての行為は、わたしたちが神に救っていただくための交換条件ではありません。救われるためにするのではなく、すでに救っていただいているからするのです。神に愛されるためにするのではなく、すでに神に愛されているからするのです。

それは、神と隣人に仕えるための行為です。わたしたちは、自分が神に愛されていることを知り、それを、神の愛を、言葉と行為で、他の人びととわかちあうのです。

自分のためにするのではなく、相手のことを想像するのです。自分が良かれと思うことをするのではなく、相手がしてほしいことをするのです。

ところで、「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」とイエスは言いますが、じつは、神こそが、そして、イエスこそが、わたしたちの塩であり、光ではないでしょうか。

神は、塩と同じく、わたしたちを腐らせません。わたしたちをあきらめさせません。いじけさせません。神は、わたしたちにつねに希望を与え続けてくださいます。

神は、塩と同じく、わたしたちの人生を味わい深くしてくださいます。神が聖書を通してわたしたちに語りかけてくださり、わたしたちが祈りを通して神に答え、そうやって神とともに歩むことができるから、わたしたちの人生は味わい深いのです。

神は闇を照らしてくれます。挫折、絶望、病気、仕事の困難、人間関係の苦しみ、孤独といったわたしたちの人生の闇を神は光で照らしてくださいます。

そして、イエスは、その神をわたしたちに示し、その神へと導いてくれます。これらの意味で、神とイエスは、地の塩であり、世の光、わたしたちの塩、わたしたちの光ではないでしょうか。

そして、わたしたちも、地の塩、世の光である、とイエスは言います。わたしたちは、どうしたらよいでしょうか。個人的には、人を傷つけない、人に嫌なことをしない、嫌なことを言わない、むしろ、人を受け入れる、人を肯定することが大事だと思います。

教会としては、神の言葉、神の愛と慰めと希望の言葉を世の人びととわかちあう、世の人びとと苦しみをわかちあう、生活をわかちあうことでありましょう。

それはひじょうに難しい、わたしたちは地の塩にも世の光にもなれないように思えるのですが、イエスは、「あなたたちは地の塩、世の光になりなさい」と言っているのではなく、「あなたたちはいますでに地の塩である、いますでに世の光である」と言っているのです。

地の塩、世の光になるのではなく、神がすでにわたしたちを地の塩、世の光にしてくださっているのだから、それにふさわしく生きていくように、イエスはわたしたちを促しているのではないでしょうか。

祈りつつ、イエスの招きに応えようではありませんか。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちを地の塩、世の光としてくださいました。あなたが与えてくださった塩、あなたご自身である光が、わたしたちの中にあることを想い起して、地の塩、世の光にふさわしく、わたしたちをお用いください。神さま、この世の中で、塩と光を求めている友がいます。どうぞ、あなたとともに、わたしたちが友の塩と光になることができますように、お導きください。イエスによって祈ります。


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