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あらためる [使信]

2021年6月6日 マタイによる福音書3:1-6  「あらためる」

おはようございます。足元の野原に赤や黄色の毒蛇が戯れている、と恐怖におののいたけれども、よく見たら、あたり一面色鮮やかな花が咲き乱れていた、という話があります。ものごとは、見方を変えてみたら、これまでとはまったく違って見えるのではないでしょうか。

私の人生を振り返ってみますと、あまり願ったようにはならなかったように思います。出版社や雑誌や新聞から原稿依頼が来るような文章家になりたいという思いがずっとありましたが、そうはなりませんでした。

しかし、これはマイナスの見方、人間的な欲望に従った見方であり、プラスの見方、人間的な欲望とは違う角度から見てみると、どうでしょうか。願ったようにならなかったけれども、これまで、かなり自由に生きてきましたし、活字で出版されることはほとんどありませんでしたが、インターネットではかなり自由にいろいろと書いてきました。





たとえば、読んだ本の感想を、書評という形式にのっとらず、自分の書きたいように書いてきましたが、10年で500冊分ほどになりました。仕事をしながら、並行して、本を読み、一冊一冊読んだ後に何かを書き記す、そういうことが許されてきたのは、とても大きな恵みでありましょう。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マタイによる福音書3章1節です。3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。ここで、ヨハネは人びとに、生き方をあらためることを求めているのですが、生き方をあらためるということは、同時に、モノの見方をあらためることでありましょう。

わたしたちは、モノを見るとき、あまりにも人間的な見方ばかりに偏っていないでしょうか。この世のことばかりを見ていないでしょうか。いや、この世のことを見るのはとても大事なのですが、それを、人間的な、あるいは、悲観的な、あるいは、表面的な、あるいは、下世話な、あるいは、ただ感情的な見方をしていないでしょうか。



この世のことを、神の見方で見ようとしているでしょうか。わたしたちには真っ暗闇に見えるこの世の中で、神が示してくれるものを、イエスが示してくれるものを見ようとしているでしょうか。

絶望ばかりを見て、希望を見ていないのではないでしょうか。不安ばかりを見て、平安を見ていないのではないでしょうか。孤独ばかりを見て、インマヌエル、神がともにいますことを見ていないのではないでしょうか。

自分のことばかりを見て、他の人びとや世の中の痛みや苦しみを見ていないのではないでしょうか。その痛みや苦しみの底に潜んでいる正義や公平を見ていないのではないでしょうか。自分の心の表面の怒りや憎しみばかりを見て、自分の心の奥に潜んでいる神の愛を見ようとしていないのではないでしょうか。

しかし、わたしたちはヨハネから、それらを見よ、自分の思いではなく、神の光に照らして、それらを見よ、というメッセージを受け取ることができるのではないでしょうか。

 3節です。3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」


ヨハネは今から二千年前の人、そして、イザヤはそれよりさらに五百年前の人です。イザヤ書40章3節にこうあります。

40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

イザヤの時代、ユダヤの人びとは国を滅ぼされ、バビロンというところで、囚われの身になっていました。そこには絶望しか見えません。いったいいつまでこの囚われの生活がつづくのか。いつになったらここから自由になれるのか。

けれども、イザヤは、その見方を変えるように促します。荒れ野に道ができる、荒れ野に広い道ができる、と言うのです。この囚われの生活は永久に続くのではなく、ここから抜け出す道ができる、この囚われから自由へと進むための道ができる、と言うのです。

わたしたちは何を見ているのでしょうか。自分の思いでしょうか。それとも、神の心でしょうか。たしかに、わたしたちは、これが神の心だ、とか、神の心はこれだ、などと言い切ってしまってはなりません。しかし、悲しみとかあきらめとか、絶望とか怒りとか、憎しみとか私利私欲とか、自分が自分の思いにとらわれていることは、かなりはっきりとわかるのではないでしょうか。


神の心が何か、断言することには、傲慢や冒涜の危険がありますが、神の心は、今自分がとらわれている思いとは違うことは間違いないのではないでしょうか。わたしたちは、神の心はわからなくても、今の自分のとらわれとは違う方向に、神の心があることは予感できます。その予感にしたがって、わたしたちは、神の心を、わからないながらも、慕い求める、憧れることが大切なのではないでしょうか。

何千人もの人びとがお腹を空かせている時、イエスの弟子たちは、一人一人が自分で買うべきだと考えました。今でいう自己責任、自分のことは自分ですべきだ、という考えに近いかもしれません。しかし、これは、人間的な見方であるかもしれません。イエスは、いや、一人一人に買いに行かせるのではなく、ここにある食べ物、五つのパンと二匹の魚をわかちあう、という新しい生き方を見せました。これは、神の心に近い生き方のように思えます。

パウロはガラテヤの信徒への手紙でこんなことを言っています。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。

パウロはここに肉の業、人間的な思いに任せた行為のリストを挙げています。この中に、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみとありますが、わたしは、自分がこうしたものに囚われてしまっていることを痛感しています。

しかし、それでは、神の国を受け継ぐことができないのです。神の心、神の思いからほど遠いのです。

けれども、パウロがここで「霊の結ぶ実」と書いた「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を慕い求める気持ち、これらへのあこがれもあります。「霊の結ぶ実」とは「神からいただくもの」と言い変えてもよいでしょう。

ヨハネは「悔い改めよ」と言いました。「悔い改め」とは、言い換えるならば、神へのあこがれ、神を慕い求める心ではないでしょうか。







私の心の中は、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、そして、不安、絶望、孤独でいっぱいだ、私はこれらに囚われている、けれども、見方を変えれば、神はこの私の心に、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、そして、平安、希望、インマヌエルを満たそうとしてくださっている、わたしが自分の力で自分の心をこれらのもので満たすことは難しいけれども、神が満たそうとしてくれるこれらのものを慕い求める、これらのものに憧れる。「悔い改め」をこのように言い変えることもできるでしょう。

ヨハネは、そして、イエスは、「悔い改め」に導いてくれます。言い換えれば、神へのあこがれ、新しい見方、新しい生き方へのあこがれに導いてくれます。わたしたちは、祈りつつ、このあこがれを育てていこうではありませんか。

祈り:神さま、わたしたちの心は、自分の思い、人間的な思い、否定的な思い、自己中心の思いでいっぱいです。けれども、あなたは、そこから新しい見方、新しい生き方へと導いてくださいます。あなたの心を慕い求める生き方へと導いてくださいます。神さま、わたしたちがあなたに従うことができますように、さらに促してください。神さま、不安と孤独と絶望、苦痛でいっぱいの友がいます。神さま、どうぞ、平安と共に生きる喜び、希望、慰めで友を満たしてください。イエスによって祈ります。

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