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神からの力 [使信]

2021年5月16日 使徒言行録1:3-11   「神からの力」

おはようございます。来週は聖霊降臨日です。そして、今日の聖書の個所では、その聖霊が降ってくることが予告されています。

聖霊とはどんなものでしょうか。同じキリスト教でも、教派、そして、ひとりひとりによって、聖霊の感じ方はさまざまです。ある人たちは、聖霊の存在や働きを、とても強く感じます。しかし、ある人びとは、聖霊を、ゆるやかに感じています。あるいは、ソフトに感じています。

わたしは、聖霊とは、神がわたしたちに注いでくれる力、働きかけのことだと思っています。超能力や魔法ではありません。わたしたちは、ときどき、人のやさしい気持ちや愛がわたしたちの力になることを感じますが、聖霊もこれに似ているように思います。神がわたしたちを愛してくれる、その心、その愛がわたしたちの力になる・・・聖霊はその力であるように感じています。

今日の聖書を振り返ってみましょう。使徒言行録1章3節です。1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

ここに、イエスは生きている、とあります。弟子たちは、イエスは苦しみを受けたのち死んで墓に埋められたのに、今ここにそのイエスが生きていることを経験したのです。

復活者としてのイエスは、ただボーっとどこかにいるだろうと思われたのではなく、弟子たちは、自分たちと一緒にいる、そして、神の国、神の愛を語ってくれる、死んだイエスがそうしてくれることを経験したのです。

 そうやって四十日を過ごしたのち、イエスは天に帰っていったとあります。この四十日は、日本で言う49日、喪に服する期間、言い換えれば、グリーフケア、別離の悲しみを大切にする期間にあたるようにも思えます。

4節です。1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

「父の約束されたもの」とあります。父とは神のことであり、神が約束したものとは、聖霊のことです。そして、イエスが天に帰った後、かわりに、天からその聖霊が降りて来るというのです。

「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」とあります。聖書には、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたときも、天から神の霊が降ってきたとあります。

ここから、キリスト教では、教会で洗礼を受け、頭に水を注がれるとき、同時に、神から聖霊を受けるという信仰を持っています。

水によって洗礼を受けるということは、本来、水の中に頭のてっぺんまで浸ることだったようですから、聖霊によって洗礼を受けることも、頭のてっぺんから足の裏まで、聖霊に包まれる、神の力に包まれることのようにも思えます。

8節です。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

神から聖霊を注がれると、わたしたちは神から力を受けるとあります。それは、わたしの証人、イエスの証人となる力だと言います。それは、言い換えれば、イエスの愛をわかちあう者にわたしたちがなるということでしょう。

わたしたちは、イエスの愛をわかちあう者にされています。わたしたちは、そのことをあらためて想い起し、今週出会う人びととどのように向かい合うのか考えようではありませんか。今週出会う人と、大きなことではなくても、笑顔を向けるような何気ないことでも、少なくとも相手を傷つけるような言葉を発しないというようなことでも、イエスの愛をわかちあう小道はいろいろあるのではないでしょうか。

11節です。1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

ここで、イエスは天に帰るがふたたびおいでになるとあります。つまり、イエスは死んだけれども、復活し弟子たちと40日間を過ごした、そして、天に帰ったけれども、弟子たちのところにもどってきたということになります。

 そうしますと、聖霊の降臨ということは、イエスがふたたびわたしたちのところに来る、そして、イエスは今もわたしたちとともにいる、ひいては神がともにいる、ということにもなるのではないでしょうか。

死んだイエスが弟子たちと一緒にいる、わたしたちと一緒にいるとはどういうことでしょうか。最近、この本を読みました。「悲しみとともにどう生きるか」という本です。あとでロビーに置いておきますので、興味のある方はご自由に持ち出してください。

この本では、二十代の息子さんを失くしたことのある柳田(やなぎだ)邦男さんという作家がこんなことを言っています。民俗学者の柳田(やなぎた)國男さんとは別の人です。

「人は亡くなっても魂は亡くならない。精神性のいのちというものは、肉体のいのちとは異なる永遠性の要素を持っています。精神性のいのちは、肉体が消滅しても消えないで、人生を共有した人の心の中で生き続ける。それゆえ亡くなったあとも、残された人に、生き直す力を与えてくれたり、心豊かに生きる生き方に気づかせてくれたりするのだと思います」

ここで、精神性のいのちと言われているものは、どこか、聖霊や神に似ているかも知れません。神という漢字には、神さまという意味だけでなく、心、精神という意味があります。精神とか神経という漢字熟語の場合、神は心を表しています。

ということは、神と人間の心には共通点があると考えられるのではないでしょうか。神も心も目には見えませんが、とても大切なものです。わたしたちの心の中には、邪悪な部分が大きくありますが、美しい部分もあります。それは愛と言ってもよい部分です。わたしたちの心の愛と呼ばれる部分は、神から来ているもの、神に吹き込まれたもの、神から注がれたものではないでしょうか。

そして、神から来ているもの、神に吹き込まれたもの、神から注がれたものには、神自身が宿っているのではないでしょうか。そのようにして、わたしたちの中には、神ご自身がともにおられ、わたしたちに、今週も歩むようにと、力を、命の息を注いでくださるのです。

祈り:神さま、天地創造において、わたしたちの創造において、あなたはあなたの命の息を吹き込んでくださいました。そして、わたしたちは今日まで生かされてきました。しかし、わたしたちは、さまざまな出来事によって、力や希望を失ってしまいます。生きる元気を失ってしまいます。けれども、神さま、あなたはそのようなわたしたちに、もういちど、そして、繰り返し、あなたの命の息、聖霊を吹き込んでくださいます。そうやって、わたしたちとともにいて、わたしたちを力づけてくださいます。神さま、苦しむ友、孤独な友に、あなたが聖霊を注ぎ、あなた自身がともにおられ、力をお与えください。イエスによって祈ります。

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