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勇気を出して [使信]

2020年5月17日 ヨハネ16:25-33  「勇気を出して」

 皆さんは、苦しみを抱えておられるのではないでしょうか。わたしたちは、自分の苦しみをどうしたらよいのでしょうか。わたしたちは、生きていくうえで、苦しみから逃れられないのなら、苦しみながらも、なんとか生きていく方法、なんとか生き抜く方法がないか、と切に求めます。苦しまない方法、苦しみを消してしまう方法ではなくて、苦しみながらもなんとか生きていく方法が必要だと思います。聖書が示してくれるものは、苦しまない方法、苦しみを消す方法ではなく、苦しみながらも生き抜いていく方法ではないでしょうか。

 苦しい思いが頭から離れないとき、苦しい思いで心がいっぱいになってしまうとき、わたしは、たとえば、本を読みます。いくつかの本は、そこにある美しい言葉は、わたしの心を慰め、和らげてくれます。あるいは、音楽を聴きます。悲しい音楽は、なぜか、そこに愛や慰めを秘めていることが多いのではないでしょうか。あるいは、おいしいものをいただきます。食べ過ぎは体によくないですが、おいしい食事は心も満たしてくれることがあります。あるいは、親しい人に、自分の話に共感してくれる人に、つまり、そうだね、そうだね、と言って聞いてくれる人に話を聴いてもらいます。「こうしたほうがよい」というアドバイスより、「それは苦しいですね」という共感の言葉に、わたしたちの精神は慰められます。それから、映画を観ます。新百合ヶ丘の映画館は55歳からシニア割引になるそうで、とても楽しみです。

 読書、音楽、食事、会話、映画。こうしたものは、苦しみを紛らしてくれたり、いや、紛らすどころか、心の深いところにも安らぎをもたらしてくれたりします。けれども、聖書は、わたしたちが苦しみながらも生き抜くための、もっと根本的な方法を示してくれているのではないでしょうか。イエスは、神を信じ神につながって生きる、神を信頼し神に支えられて生きる、苦しい人生ではあるけれども、そうやって、たしかに生き抜く道を教えてくれているのではないでしょうか。

 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書16章25節です。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」。

 イエスの働きのひとつは、神をわたしたちに知らせることです。世界の創造者、わたしたちの創造者、いのちの造り主、わたしたちのいのちの導き手であり養い手である神を、わたしたちに知らせる、わたしたちに引き合わせる、これがイエスの大事な働きです。

 イエスはこれまでたとえを用いて、神を伝えてきました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」 父とは、いのちの造り主、いのちの養う者を現しています。ですから、母、あるいは、その他の表現を使ってもよいと思います。いずれにしろ、イエスは自分をぶどうの木にたとえることで人びとに神を伝えようとしました。ヨハネによる福音書では、イエスは、神を何かにたとえるというよりも、自分を何かにたとえることで、神を伝えようとしているのではないでしょうか。

 「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは世の光である」 イエスは自分をこのようにたとえることで、人びとを神と引き合わせようとしたのではないでしょうか。

 しかし、いまや、そのたとえがなくても、人びとが、わたしたちが、父、神を知るようになる、とイエスは言います。

 27節です。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」。


 弟子たちは、人びとは、わたしたちは、イエスによって神にひきあわせられますが、いまや、神から直接愛されている、神と直接つながっている、ということではないでしょうか。

 けれども、それは、イエスが不要になった、ということではないでしょう。友達のAさんがわたしにBさんという人を紹介してくれ、わたしはBさんと友達になったとします。いまや、わたしはBさんとも直接会ったり話したりします。しかし、それで、最初の友達Aさんがもはやわたしの友達でなくなったわけではありません。Aさんはずっとわたしの大事な友達です。Bさんもこれからずっとわたしの大事な友達です。イエスと神とわたしたちの関係もそのようなものではないでしょうか。

 ところが、そのイエスに異変が起こります。32節です。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」。

 イエスは権力者によって捕まえられ、親しかった人びとはなすすべもなく、イエスはひとりきりになってしまいます。それにもかかわらず、イエスは、「わたしはひとりきりではない。父が、共にいてくださる」と言います。

 けれども、これは、イエスが神に見捨てられなかった、ということに留まりません。わたしたちも、イエスと共に、神に見捨てられることがないのです。

 33節です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

 「わたしはひとりきりではない。父が、共にいてくださる」とイエスが語ったのは、わたしたちがイエスによって平和を得るためだったのです。

 わたしたちはイエスによって神に引き合わされました。しかし、わたしたちはイエスや神から引き離されたり、あるいは、みずから遠ざかったりすることもあるでしょう。けれども、イエスがずっと神とつながっていることで、神がイエスをひとりにしないことで、わたしたちもまた、イエスとのつながりに、神とのつながりに回復されるのではないでしょうか。

 わたしたちがイエスや神から離れてしまったように思えても、あるいは、わたしたちから友が去って行き、ひとりきりにされても、わたしたちはひとりきりではない、神が、イエスが共にいてくださるのです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

 わたしたちの人生には苦難があります。しかし、勇気を出しなさい、とイエスは言ってくれます。

 イエスはわたしたちを神とひきあわせてくれ、神はイエスとともに、わたしたちをひとりきりにしないでくださる、わたしたちを苦しみに屈服させることはないのです。

祈り:神さま、あなたはわたしたちにいのちをお与えくださり、生きるために世界をお与えくださいました。心より感謝申し上げます。神さま、イエスによってあなたに引き合わされたわたしたちが、あなたにつながり続けることができますように。孤独な魂、苦しむ魂、張り裂けそうな魂、つぶれそうな魂のことを思います。どうぞ、あなたがともにいらしてくださり、いのちの息吹をあらためて吹き込んでください。イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

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