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世界に収まらない愛 [使信]

2020年5月3日 ヨハネ21:15-25  「世界に収まらない愛」

 今日のヨハネによる福音書では、復活したイエスが弟子のペトロに三度呼びかけています。ペトロとは岩という意味で、彼のあだ名です。本名はシモンです。父親はヨハネという名前だったのかもしれません。ですから、ヨハネの子シモンと三度呼びかけられています。

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」「わたしの小羊を飼いなさい」

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」「わたしの羊の世話をしなさい」

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」「わたしの羊を飼いなさい」

 このように、三度繰り返されます。これは、神とわたしたちの間でなされる対話でもありましょう。「あなたはわたしを愛していますか」「はい、愛しています」「では、あなたの隣人を愛しなさい」

 羊飼いが羊にそうするように、牧師は教会に集う人々に、仕えることが期待されていることでしょう。その牧師とともに、役員さんたちも、教会につらなる人びとに仕えることが期待されていることでしょう。けれども、これらの根本には、教会に集うわたしたち同士、牧師とか役員とかいう以前に神の前に立つわたしたち同士が、おたがいに仕えあう、おたがいにひとりひとりのことを配慮し気遣いあい、愛しあう、ということがあるのではないでしょうか。

 今日の聖書でイエスはこう語っています。17節の最後のセンテンスからです。「わたしの羊を飼いなさい。21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 若い時、わたしたちは自分のために生きてきた、自分の人生が少しでもよくなることを考えて生きてきたのではないでしょうか。けれども、年を取ると、そうはいきません。ひとつは、自分の思うように動けなくなります。自分の思うようにならなくなります。

 もうひとつは、自分の人生を良くする以上に、人のために、悲しんでいる人、疲れている人、つらい思いをしている人、苦しんでいる人のことを思いながら、そうした人びとに寄り添いながら生きていく、ことが求められてくるのではないでしょうか。人生の意味とは、自分の幸いだけでなく、誰かの幸いを祈り求めていくことにあるのではないでしょうか。

 最近、この本を読んでいます。これは、安克昌さんという神戸大学出身の精神科医の著書です。神戸大学の精神科医といえば、中井久夫さんという有名な方がおられますが、その方の愛弟子です。1960年生まれ、わたしと同い年ですが、39歳で召されました。阪神淡路大震災後の精神科医としての働きから、この「心の傷を癒すということ」という名著は生まれました。

 この本の中で非常に印象に残った言葉があります。「心のケアって何か、わかった」「誰も一人ぼっちにさせへん、ってことや」。「心のケアって何か、わかった」「誰も一人ぼっちにさせへん、ってことや」。

 この本の著者の安さんは、震災や津波、戦争、犯罪などの大きな激しい出来事によって心に深い傷を負った人びと、いわゆるトラウマによるPTSDを抱えた人びとの精神治療の専門家で、そのような学識や医術に深い見識のあるかたですが、その方が、心のケアとは、誰も一人ぼっちにさせないことだ、と言われるのです。

 コロナウィルスの影響で、わたしたちは教会の建物に一斉に集うことができません。教会だけでなく、社会全体にも、孤立し、孤独を抱えている人びとが大勢います。そういう時期だからこそ、わたしたちは、たがいに気遣いあい、気遣いに基づいた言葉をかけ、たがいのことを神に祈りあうことが大事なのではないでしょうか。

 教会に集うひとりひとりがひとりぼっちになってしまわないようにどうすればよいのか、また、社会においてひとりぼっちになりそうな人びとを前にわたしたちはどうすればよいのか、祈り求めて生きたいと思います。

 どうしたらよいか、具体的には何をしたらよいか、また、自分のことで精いっぱいなのに他の人のことを考えることができるのか、わたしたちは不安です。けれども、イエスは言われました。「わたしに従いなさい」。「わたしに従いなさい」。19節の最後で、イエスはペトロに、そして、わたしたちに、「わたしに従いなさい」と呼びかけています。

 20節をご覧ください。21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。

 イエスはこの名前の記されていない弟子を愛しました。他の弟子たちはそれが羨ましかったのかもしれません。けれども、イエスはペトロをも愛していました。

 最初に見ましたように、イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度尋ねています。これは、「わたしを愛しなさい」という促しにも思えます。最近読んだ「福音と世界」という雑誌に、「わたしを愛しなさい」という命令には「わたしはあなたを愛している。だから、あなたもわたしを愛しなさい」という前提が含まれている、ということが書かれていました。

 ならば、イエスの「わたしを愛しているか」という三度の問いかけは、「わたしはあなたを愛している」という三度の告白でもあったのではないでしょうか。ペトロはイエスから、愛しているという告白を三度も受けていたのではないでしょうか。

 25節です。21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 イエスの愛、そして、その源である神の愛を書物に記したとしたら、その書物は世界に収まり切れないほどのボリュームになると言います。

 わたしたちはそれほどに愛されているのです。その愛に感謝して、その愛にお応えして、わたしたちは、誰かをひとりぼっちにしないように祈り求めようではありませんか。

祈り:神さま、あなたはわたしたちを創造してくださいました。いのちをお与えくださいました。わたしたちがこの世界で生きていくために備えてくださったものをわたしたちは数え上げることができません。あなたの愛は世界に収まり切れず、満ち溢れています。今、コロナウィルスの影響で、わたしたちは、不安や孤独、窮乏を抱えています。どうぞ、あなたからの無限の愛を思い起こしながら、たがいに心を配りあい、愛し合うことができますように。一匹の羊をあなたが顧みてくださり、わたしたちをお遣わし下さい。アーメン。

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