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「大漁の秘訣」 [使信]

2020年4月26日 ヨハネ21:1-14  「大漁の秘訣」

 良い人生を送るためには、わたしたちはどうしたらよいでしょうか。まじめに、誠実に、努力をして、人の役に立つようなことをしたら、よい人生を送ることができるのでしょうか。そうすれば、そこそこの地位や収入、あるいは、健康やそれなりの幸せを手にすることができるのでしょうか。それが良い人生なのでしょうか。そもそも良い人生とは何なのでしょうか。

 今日の聖書の話には、イエスに導かれて、弟子たちは153匹もの、しかも、大きな魚を手にすることができた、とあります。わたしには、この153匹の大きな魚は、良い人生を象徴しているように思えるのです。

 今日の聖書を振り返ってみましょう。ヨハネによる福音書21章1節です。「21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された」。

 イエスが弟子たちにご自身を現された、とあります。イエスが御自身を弟子たちに、そして、わたしたちに現す。これこそが、イエスの復活です。イエスがここにいる、イエスが今自分とともにいると知る、感じる。そのような出来事、そのような経験、そのような深い想いをこそ、わたしたちは、主の復活と信じるのではないでしょうか。
 
 3節です。「21:3 シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」。

 漁とは、ペトロたち、イエスの弟子たちの日常生活でした。人生でした。けれども、その日常、その人生、その毎日において、彼らは何もとれなかったのです。しかも、それは夜でした。夜の方が魚がとれる場合もあるようですが、それでも魚がとれなければ、夜は彼らを冷えさせ、夜の闇は彼らを不安にしたことでしょう。何もとれない。このこと自体が、まさに夜なのかも知れません。わたしたちも夏なのに冬を、昼なのに夜を過ごしたことがなかったでしょうか。けれども、その夜が明けます。

 4節です。「21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。21:5 イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」。

 「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」とあります。舟の中の者たちにとって、イエスが岸にいる、イエスが岸に見える、そのことが夜明けなのではないでしょうか。

 誰かが岸にいます。しかし、ペトロたちは、それがイエスとは気づきませんでした。わたしたちは、イエスがそこにいることに気付いているでしょうか。夜の海をひとり漂っているようでも、じつは、そこにイエスがいるのです。

 イエスは尋ねます。「子たちよ、何か食べ物はあるか」。それは、あなたには糧がありますか、あなたの人生を良いものにしてくれる糧がありますか、あなたの人生にはよきものがありますか、という問いと重なって聞こえます。弟子たちは、「ありません」と答えます。彼らは、そして、もしかしたら、わたしたちも、そう答えますが、はたして、それは正しい答えでしょうか。

 6節です。「21:6 イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。

 わたしたちもイエスの指示にしたがって、舟の右側に網を打ってみたら、もしかしたら、わたしたちの人生も大漁になるかも知れません。けれども、舟の右側ってどちらですか。進行方向を見て右手のことでしょうか。それとも、進行方向と反対方向を見て右手のことでしょうか。「舟の右側に網を打ちなさい」と言われても、わたしたちは右や左さえわからないことがあるのではないでしょうか。

 イエスの言葉に従いたいが具体的にはどうしたらよいかわからない。けれども、とにかく、イエスがわたしたちと一緒にいてくださり、一緒に漁をしてくれる。そのこと自体が、わたしたちの人生の大漁なのではないでしょうか。魚が何匹とれたか、ではなく、イエスがともに漁をしてくれる。これこそが、わたしたちの人生の大漁であり、これこそが、良き人生なのではないでしょうか。

 7節です。「21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。

 「主だ」「主がここにおられる」「イエスがここにおられる」「神がともにおられる」。弟子たちとともに、これに気付くことこそが、わたしたちの人生の大漁であり、良き人生なのではないでしょうか。

 12節です。「21:12 イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 「あなたはどなたですか」「主よ、あなたはどこにおられるのですか」と、わたしたちが詰問しなくても、神はわたしたちとともにおられます。

 イエスが弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である、とあります。三度どころか、四度目も、五度目もあることでしょう。数えきれないほどあるでしょう。じつは、イエスは、いつも、わたしたちのところに現れていてくださるのです。そのことを通して、わたしたちは、魚がとれない夜であっても、神がともにいたもうことを知るのです。

祈り:わたしたちの主なる神さま、わたしたちといつもともにいらしてくださり、心より感謝申し上げます。あなたがともにおられる、そのような良き人生、ゆたかな人生をお与えくださり、まことにありがとうございます。けれども、神さま、世界中に強い感染症が蔓延しているいまのようなときには、わたしたちはそれを忘れてしまいます。神さま、あなたがわたしたちを支えてくださっておられることを、もう一度、思い起こさせてください。孤独な魂、不安な心を、どうぞ、慰め、励まし、希望を持たせてください。一日でも早く夜明けを迎えることができますように、お導きください。アーメン

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