「金ではなく神が救う」 [礼拝説教(使信)動画]
2021-11-21 13:15
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2021年11月21日 [今週の聖書の言葉]
【今週の聖書の言葉】
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という戒めをみな守って来たという人に、イエスは「あなたには欠けているものがひとつある」と言いました。
たしかに、この人は言われたことはすべて果たしてきたのでしょう。しかし、それ以上のことは、何一つしてこなかったのではないでしょうか。
わたしたちも人を殺してはいないかもしれません。けれども、より積極的に、人を生かしてきたでしょうか。誰かが生きることに自分の持てる力や時間や財産を用いて来たでしょうか。
わたしたちも人から盗んではいないかもしれません。けれども、より積極的に、人とわかちあってきたでしょうか。自分の時間や労力や衣食住の財を人とわかちあってきたでしょうか。
イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言いました。金持ちは自分の富を独占しますが、それは、神の心からはほど遠い、とイエスは言うのです。
はんたいに、富を独占せずに、自分のもてるもの(富、時間、心、身体、そして、祈りなど)を他の人とわかちあうことが、神の心に沿うのであり、神を中心にした交わりを豊かにすると言うのです。
自分中心、独占から共生、わかちあいへ、イエスはわたしたちを招いています。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という戒めをみな守って来たという人に、イエスは「あなたには欠けているものがひとつある」と言いました。
たしかに、この人は言われたことはすべて果たしてきたのでしょう。しかし、それ以上のことは、何一つしてこなかったのではないでしょうか。
わたしたちも人を殺してはいないかもしれません。けれども、より積極的に、人を生かしてきたでしょうか。誰かが生きることに自分の持てる力や時間や財産を用いて来たでしょうか。
わたしたちも人から盗んではいないかもしれません。けれども、より積極的に、人とわかちあってきたでしょうか。自分の時間や労力や衣食住の財を人とわかちあってきたでしょうか。
イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも言いました。金持ちは自分の富を独占しますが、それは、神の心からはほど遠い、とイエスは言うのです。
はんたいに、富を独占せずに、自分のもてるもの(富、時間、心、身体、そして、祈りなど)を他の人とわかちあうことが、神の心に沿うのであり、神を中心にした交わりを豊かにすると言うのです。
自分中心、独占から共生、わかちあいへ、イエスはわたしたちを招いています。
2021-11-21 07:24
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金ではなく神が救う [使信]
2021年11月21日 マルコ10:17-27 「金ではなく神が救う」
おはようございます。皆さん、今日は、まぶね教会の礼拝によくお越しくださいました。恵泉女学園のクワイア、ラ・パーチェの皆さんも、お迎えできて、とても平和な、ラ・パーチェな気持ちです。
さて、今日の聖書には、イエスのこんな言葉がありました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」あるいは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」ともイエスは言っています。
そうすると、わたしたちはお金や持ち物を、みな捨てて、神さまに従わなくてはならないのでしょうか。お金や物を持つことは悪いことなのでしょうか。
お金は大事です。わたしには家族がいて、恵泉の皆さんよりは少し年が上の子どもたちもいますが、家族と生活するには、ある程度のお金がかかります。ひとりで暮らす場合も、お金は必要です。わたしたちが生きていくには、最低限度のお金や物、財産が必要ですし、できれば、最低限度ではなく、最低限度プラスアルファのものがあった方がよいと思います。
毎日の衣食住、着るもの、食べるもの、住む場所、家も、お金がなければ手に入りません。病院に行ったり、本を買ったり、学校で勉強したり、旅行に出かけたりするのにも、お金が必要です。
けれども、あまりにも多くのものは必要ないのではないでしょうか。たとえば、部屋一杯の衣服は要らないのではないでしょうか。しかし、衣服は一着では困ります。何着か必要です。毎日、ぜいたくなものを動けなくなるくらいお腹いっぱいに食べる必要はありませんが、毎日の食事は必要です。ディズニーランドのような庭があるお城のような家に住む必要はありませんが、ふつうに住む家は必要です。それらをすべて要らないとか棄てるとかいうわけにはいきません。
では、わたしたちは、今日の聖書からどのようなことを学べるでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書10章17節です。10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
「永遠の命」とは、神さまとつながったいのちのことだと思います。神さまと心がつながって生きることだと思います。
そうするにはどうしたらよいのでしょうか。19節です。10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えとありますが、これは、旧約聖書の出エジプト記に書かれている十戒、十の戒めの半分にあたります。殺してはいけません、盗んではいけません、嘘をついて人を苦しめてはなりません、親を大事にしなさい。
そんなことはぜんぶ子どもの時から守ってきました、一度も破ったことはありません、とこの人は答えます。たしかにそうでしょう。この人は、言われていること、命じられていることはしっかり守る人なのでしょう。けれども、イエスは、「言われたことを守るだけではなく、言われたこと以上のことをしなさい」と言うのです。
「持っている物を売り払い、そのお金を貧しい人びととわけあいなさい」などとは、十戒には書かれていませんが、イエスは、十戒に書かれている以上のことをしなさい、それがあなたに欠けていることだと言うのです。
ただ人から物を盗まないだけでなく、人と物をわかちあいなさい、ただ人を殺さないだけでなく、人がしっかり生きることができるように人を支えなさい、十戒に書いてなくてもそうしなさい、というのです。持っている物を売り払って、そのお金を貧しい人びととわかちあうということは、貧しい人からただ盗まない以上のことなのです。そして、それは貧しい人を殺さないばかりでなく、貧しい人のいのちを支えることなのです。
盗まないばかりか人とわかちあう、殺さないばかりか人を支える、そのことがイエスにしたがうことなのです。
わたしたちにはどのようなことができるでしょうか。たとえば、今、日本全国で、子ども食堂が営まれています。これは、食べ物、食品をわかちあうだけでなく、食べるという行為をわかちあうことでもありましょう。
今社会では貧困、貧しくて苦しんでいる人びとが増えていますが、わたしたちは、食べ物だけでなく、衣服や住宅をどのようにわかちあっていくことができるか考えていかなくてはなりません。ひとりでは難しいことですが、わかちあいたいという人が何人も集まれば、きっと何かができることでしょう。
衣食住だけでなく、わたしたちは、心や時間をわかちあうこともできるのではないでしょうか。これは、衣食住と比べて、ひとりでもできるかも知れません。悲しんでいる人、苦しんでいる人がいたら、その人の気持ちを一所懸命に聴く、アドバイスをするのではなくその人の気持ちをわかろうとしながら聴く、そのために自分の時間をわかちあう、その人の気持ちの一部をわかちあうことが、わたしたちにはできるかもしれないですね。
25節です。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
針の穴はとても小さいです。わたしなど、糸さえ通せません。ましてや、らくだがそこを通ることは不可能です。それと同じように、お金持ちが神の国に入ることは不可能だとイエスは言います。
お金や物を独り占めしていては、何でもかんでもこれは自分だけのものとしていては、神さまと心でつながることはできない、ということではないでしょうか。
たしかに、わかちあうことはとても難しいです。衣食住だけでなく、心や時間をわかちあうことも簡単ではありません。たとえば、悩んでいる人から、聴いて欲しいことがある、と言われても、今この時間は、自分だけの時間にしたい、テレビを観ていたい、音楽を聴いていたい、他の人とおしゃべりをしていたい、というような時があります。
どこかに一緒についてきてほしい、と言われても、自分がしたいことや自分が行きたいところがある場合があります。
他の人とわかちあうことも大事ですが、自分を大切にすることもとても大事です。他の人と時間や心をわかちあうことと、自分自身を大切にすること、このバランスで、わたしたちは悩みます。わたしも、お金や時間や心は自分のために使いたい、という気持ちが強いです。
けれども、ふしぎなことに、それを人とわかちあいたい、という気持ちになることがあります。それは、神さまがそのようにしてくださるのだと思います。わたしたちは、自分の気持ちで、自分のものを人とわかちあうことは難しいですが、神さまがそのようにしてくださることがあるのではないでしょうか。
中村哲さんというお医者さんがいました。この方は2年前にアフガニスタンで地上の命を終えました。中村さんは、九州にある西南学院というキリスト教の学校に行き、そこで神さまと出会い、キリスト教を信じるようになりました。
大学では医学を学び、お医者さんになりました。日本で医者をしていれば、ゆたかな生活もできていたかもしれませんが、アフガニスタンに行き、貧しい人びと、傷ついた人々の来る診療所を建て、やがて、用水路を作る事業を始めます。荒れ野に水が流れるようにして、畑を作り、人びとに食糧をもたらそうとしたのです。
中村さんの人生は、自分一人で独占すれば、日本で医者として裕福な生活ができたかもしれませんが、彼は、自分の人生をアフガニスタンの人びととわかちあい、何万人もの人びとに水と食料をもたらしたのです。
わたしたちの心を神さまとつないでくれるものは何でしょうか。わたしたちの心を救ってくれるものは何でしょうか。お金でしょうか。それとも、神さまの愛でしょうか。お金は生きていくのに必要ですが、心はお金だけでは救われません。神さまの愛がわたしたちの心を救ってくれるのです。神さまの愛がわたしたちの心を神さまとつないでくれるのです。
神さまの愛はお金では買えません。言われたことや規則を守るだけでも手に入れられません。それは、神さまがわたしたちに無料で与えてくれるものです。わたしたちが自分以外の人びととわかちあっていきていくときに、その神さまの愛を感じることができるのです。
わたしたちがわかちあって生きていくことで感じられる神の愛こそが、わたしたちの心を救ってくれるのです。
お祈りをいたしましょう。神さま、あなたは、わたしたちに、殺すな、盗むなと教えてくださいました。さらに、イエスを通して、わかちあうこと、共に生きることを教えてくださいました。心より感謝いたします。神さま、わたしたちがそうすることで、あなたの愛を心に深く感じることができますように。神さま、悩んでいる人、苦しんでいる人、傷ついている人、孤独な人がいます。わたしたちがその人びととあなたの愛をわかちあうことができますように。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。
おはようございます。皆さん、今日は、まぶね教会の礼拝によくお越しくださいました。恵泉女学園のクワイア、ラ・パーチェの皆さんも、お迎えできて、とても平和な、ラ・パーチェな気持ちです。
さて、今日の聖書には、イエスのこんな言葉がありました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」あるいは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」ともイエスは言っています。
そうすると、わたしたちはお金や持ち物を、みな捨てて、神さまに従わなくてはならないのでしょうか。お金や物を持つことは悪いことなのでしょうか。
お金は大事です。わたしには家族がいて、恵泉の皆さんよりは少し年が上の子どもたちもいますが、家族と生活するには、ある程度のお金がかかります。ひとりで暮らす場合も、お金は必要です。わたしたちが生きていくには、最低限度のお金や物、財産が必要ですし、できれば、最低限度ではなく、最低限度プラスアルファのものがあった方がよいと思います。
毎日の衣食住、着るもの、食べるもの、住む場所、家も、お金がなければ手に入りません。病院に行ったり、本を買ったり、学校で勉強したり、旅行に出かけたりするのにも、お金が必要です。
けれども、あまりにも多くのものは必要ないのではないでしょうか。たとえば、部屋一杯の衣服は要らないのではないでしょうか。しかし、衣服は一着では困ります。何着か必要です。毎日、ぜいたくなものを動けなくなるくらいお腹いっぱいに食べる必要はありませんが、毎日の食事は必要です。ディズニーランドのような庭があるお城のような家に住む必要はありませんが、ふつうに住む家は必要です。それらをすべて要らないとか棄てるとかいうわけにはいきません。
では、わたしたちは、今日の聖書からどのようなことを学べるでしょうか。今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書10章17節です。10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
「永遠の命」とは、神さまとつながったいのちのことだと思います。神さまと心がつながって生きることだと思います。
そうするにはどうしたらよいのでしょうか。19節です。10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えとありますが、これは、旧約聖書の出エジプト記に書かれている十戒、十の戒めの半分にあたります。殺してはいけません、盗んではいけません、嘘をついて人を苦しめてはなりません、親を大事にしなさい。
そんなことはぜんぶ子どもの時から守ってきました、一度も破ったことはありません、とこの人は答えます。たしかにそうでしょう。この人は、言われていること、命じられていることはしっかり守る人なのでしょう。けれども、イエスは、「言われたことを守るだけではなく、言われたこと以上のことをしなさい」と言うのです。
「持っている物を売り払い、そのお金を貧しい人びととわけあいなさい」などとは、十戒には書かれていませんが、イエスは、十戒に書かれている以上のことをしなさい、それがあなたに欠けていることだと言うのです。
ただ人から物を盗まないだけでなく、人と物をわかちあいなさい、ただ人を殺さないだけでなく、人がしっかり生きることができるように人を支えなさい、十戒に書いてなくてもそうしなさい、というのです。持っている物を売り払って、そのお金を貧しい人びととわかちあうということは、貧しい人からただ盗まない以上のことなのです。そして、それは貧しい人を殺さないばかりでなく、貧しい人のいのちを支えることなのです。
盗まないばかりか人とわかちあう、殺さないばかりか人を支える、そのことがイエスにしたがうことなのです。
わたしたちにはどのようなことができるでしょうか。たとえば、今、日本全国で、子ども食堂が営まれています。これは、食べ物、食品をわかちあうだけでなく、食べるという行為をわかちあうことでもありましょう。
今社会では貧困、貧しくて苦しんでいる人びとが増えていますが、わたしたちは、食べ物だけでなく、衣服や住宅をどのようにわかちあっていくことができるか考えていかなくてはなりません。ひとりでは難しいことですが、わかちあいたいという人が何人も集まれば、きっと何かができることでしょう。
衣食住だけでなく、わたしたちは、心や時間をわかちあうこともできるのではないでしょうか。これは、衣食住と比べて、ひとりでもできるかも知れません。悲しんでいる人、苦しんでいる人がいたら、その人の気持ちを一所懸命に聴く、アドバイスをするのではなくその人の気持ちをわかろうとしながら聴く、そのために自分の時間をわかちあう、その人の気持ちの一部をわかちあうことが、わたしたちにはできるかもしれないですね。
25節です。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
針の穴はとても小さいです。わたしなど、糸さえ通せません。ましてや、らくだがそこを通ることは不可能です。それと同じように、お金持ちが神の国に入ることは不可能だとイエスは言います。
お金や物を独り占めしていては、何でもかんでもこれは自分だけのものとしていては、神さまと心でつながることはできない、ということではないでしょうか。
たしかに、わかちあうことはとても難しいです。衣食住だけでなく、心や時間をわかちあうことも簡単ではありません。たとえば、悩んでいる人から、聴いて欲しいことがある、と言われても、今この時間は、自分だけの時間にしたい、テレビを観ていたい、音楽を聴いていたい、他の人とおしゃべりをしていたい、というような時があります。
どこかに一緒についてきてほしい、と言われても、自分がしたいことや自分が行きたいところがある場合があります。
他の人とわかちあうことも大事ですが、自分を大切にすることもとても大事です。他の人と時間や心をわかちあうことと、自分自身を大切にすること、このバランスで、わたしたちは悩みます。わたしも、お金や時間や心は自分のために使いたい、という気持ちが強いです。
けれども、ふしぎなことに、それを人とわかちあいたい、という気持ちになることがあります。それは、神さまがそのようにしてくださるのだと思います。わたしたちは、自分の気持ちで、自分のものを人とわかちあうことは難しいですが、神さまがそのようにしてくださることがあるのではないでしょうか。
中村哲さんというお医者さんがいました。この方は2年前にアフガニスタンで地上の命を終えました。中村さんは、九州にある西南学院というキリスト教の学校に行き、そこで神さまと出会い、キリスト教を信じるようになりました。
大学では医学を学び、お医者さんになりました。日本で医者をしていれば、ゆたかな生活もできていたかもしれませんが、アフガニスタンに行き、貧しい人びと、傷ついた人々の来る診療所を建て、やがて、用水路を作る事業を始めます。荒れ野に水が流れるようにして、畑を作り、人びとに食糧をもたらそうとしたのです。
中村さんの人生は、自分一人で独占すれば、日本で医者として裕福な生活ができたかもしれませんが、彼は、自分の人生をアフガニスタンの人びととわかちあい、何万人もの人びとに水と食料をもたらしたのです。
わたしたちの心を神さまとつないでくれるものは何でしょうか。わたしたちの心を救ってくれるものは何でしょうか。お金でしょうか。それとも、神さまの愛でしょうか。お金は生きていくのに必要ですが、心はお金だけでは救われません。神さまの愛がわたしたちの心を救ってくれるのです。神さまの愛がわたしたちの心を神さまとつないでくれるのです。
神さまの愛はお金では買えません。言われたことや規則を守るだけでも手に入れられません。それは、神さまがわたしたちに無料で与えてくれるものです。わたしたちが自分以外の人びととわかちあっていきていくときに、その神さまの愛を感じることができるのです。
わたしたちがわかちあって生きていくことで感じられる神の愛こそが、わたしたちの心を救ってくれるのです。
お祈りをいたしましょう。神さま、あなたは、わたしたちに、殺すな、盗むなと教えてくださいました。さらに、イエスを通して、わかちあうこと、共に生きることを教えてくださいました。心より感謝いたします。神さま、わたしたちがそうすることで、あなたの愛を心に深く感じることができますように。神さま、悩んでいる人、苦しんでいる人、傷ついている人、孤独な人がいます。わたしたちがその人びととあなたの愛をわかちあうことができますように。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。
2021-11-21 07:22
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