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終わりまで [礼拝説教(使信)動画]

2021年11月14日 「終わりまで」

https://youtu.be/RjOgR3AWATY
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2021年11月14日 [今週の言葉]

【今週の聖書の言葉】

「人に惑わされないように気をつけなさい。」(マルコ13:5)

 災害、病気、悪政、貧困、挫折、失業、暴力、暴言、虚偽など、わたしたちの人生にはさまざまな困難が生じます。そのとき、わたしたちは何を頼りに、何を支えとすればよいでしょうか。
 家族や友、場合によっては見知らぬ人が大きな助けになる場合もあるでしょう。人と人とのつながりの中で生かされることは非常に大切です。けれども、残念なことに、わたしたちを惑わす人もいます。救ってくれるように見えた人がそうでなかったこともあります。一見救いに見える派手な言葉にわたしたちは惹かれてしまいがちです。
 世の中から聞こえてくる情報が助けになる場合もあるでしょう。正確な情報を得て判断することも大切です。けれども、わたしたちは、ふたしかなうわさや強引な言葉に、揺さぶられてしまうこともないでしょうか。
 職場や人間関係でひどい目に遭うこともあるでしょう。誹謗中傷を受けたり、言い分を聞いてもらえずに処分されたり、解雇されたりすることもあるでしょう。そういうときどうしたらよいのか、わたしたちにはわかりません。
 濡れ衣を晴らしたり、相手の非を明らかにしたり、謝罪してもらったりすれば、心が楽になれるような気もしますが、それには多大な時間と費用と労力が必要な場合があるでしょう。そんなことをすれば、苦しめられた記憶が際限なく繰り返され、ますます苦しくなったり、そんなことをしても、相手がこちらの願う通りにはしてくれないこともあるでしょう。どうしたらよいのでしょうか。
 イエスは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言います。この言葉には、苦しみの中でも神があなたとともにいる、神はあなたをけっして見棄てず、むしろ、あなたとともに苦しみを負ってくれる、という前提があるのではないでしょうか。

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最後まで [使信]

2021年11月14日 マルコ13:5‐13  「最後まで」

おはようございます。戦後76年になります。まぶね教会の平均年齢もそれくらいです。ということは、半分の人は戦争の災禍を経験し、もう半分の人は戦争を知らない子どもたちということになります。と言っても、立派な大人ですが。わたしもその一人です。

小学校、中学校の先生は、戦争を二度と起こしてはならない、と話してくれましたが、わたしは、戦争という歴史的な苦しみがあったのは過去の話、自分の生きている時代にはそのようなことはもうないだろう、という気がしていました。

しかし、朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、阪神淡路大震災があり、東日本大震災があり、熊本、中越、北海道でも大震災があり、ここ十年、毎年のように大水害が起こっています。そして、今はコロナ禍の最中であり、日本では収まっているように見えていますが、すぐに再燃するだろうという不安はぬぐえません。政治においても、戦争の反省に基づいた憲法第9条の戦争をしない、軍備を持たないという大原則がますます危うくなってきています。

わたしたちの人生には大変な困難が幾たびか生じます。戦争や災害のように世の中に起こるものもあれば、大病、家族、仕事、人間関係の問題など個人に起こるものもあります。人生ではまさかと思うような事態に見舞われます。

そうしたなかで、わたしたちはどのように生きたらよいのでしょうか。苦しい出来事が続くこの世界を、困難に見舞われるこの人生を、わたしたちはどのように生きたらよいのでしょうか。

今日の聖書でイエスはわたしたちに、「最後まで耐え忍びなさい」「最後まで耐え忍びなさい」と語りかけてくれます。「最後まで耐え忍びなさい」。しかし、これは精神論、忍耐論ではありません。「神が共にいるから、たとえどんな困難、どんな事件があっても生き抜きなさい」とイエスは言っているのです。神が最後まで共にいてくださる、とイエスは言っているのです。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書13章5節です。13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

 自分はイエスの生まれ変わりだ、自分はイエスの再来だと名乗る人物が現れることもあるようですが、それは、あまりあることではなく、わたしたちが注意すべきことは、頼りになりそうな人を過信してしまうことではないでしょうか。わたしたちは、ときどき、この人の言うことはまちがいないとか、この人にすべてを任せたいとか、自分の心も考えもこの人に委ねたい、などと思ってしまわないでしょうか。

 それは、歴史上ではヒトラーのような人物であり、その後もミニヒトラーはときどき出現しているのではないでしょうか。あるいは、そのような宗教家もときどき出てきます。身近なところでは、やさしげな親戚のおばさんとかおじさんとかを全面的に頼ってしまうようなこともあるのではないでしょうか。

たしかに、わたしたちは人に助けられますし、人を信頼し、人とつながることは、とても大切です。けれども、人には限界がありますし、人には別の顔もあります。神に頼るがごとくに、人に頼ってしまうことには、危険があるのではないでしょうか。人に頼っても良いと思いますが、それは神に頼るがごとくではなく、人に頼るがごとく人に頼る範囲にとどめておくのが良いと思います。そのぶん、神に頼りましょう。

7節です。13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

戦争が起こっても世の終わりではない、と言っています。これはどういう意味でしょうか。戦争は地獄図です。人の体が爆弾でばらばらになったり、血を流したり、炎で焼かれたりすることは、まるで、世の終わりの光景です。

 それでも、世の終わりではないとイエスが言うならば、それは、どんなことがあってもあきらめてはならない、これですべて終わりだと思ってはならない、ということでしょう。わたしたちには世の終わりだと思えても、世の終わりではない、わたしたちにはこれですべて終わりだと思えても、すべての終わりではない、とイエスは言っているのです。

終わりどころか、これらは「産みの苦しみの始まり」であるとイエスは言います。戦争や災害が苦しみの始まりであることは容易に理解できますが、これが産みの始まり、ここから新しいものが産まれてくるとはどういうことなのでしょうか。

 世界の苦しみ、人生の苦しみから何が産まれてくるのでしょうか。それは、祈りではないでしょうか。静かな祈りではないでしょうか。叫び声、泣き声と区別ができないかもしれませんが、それは祈りではないでしょうか。いのちを想う祈り、まことのいのちを慕い求める祈り、神をひたすら求める祈りではないでしょうか。

9節です。13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

わたしたちは王の前に引きずり出されることはないかもしれませんが、それでも、人からひどい目に遭わせられることはあります。人から鞭打たれるような想いをすることがあります。

 そういうときに、「証しをする」「福音を宣べ伝える」とはどういうことでしょうか。それは、自分を傷つける相手に何かを語るということではなく、「それでも、神が共にいる」と自分に証しをする、「それでも、神が一緒にいてくれる」という奇跡的な喜びの知らせを自分に告げることではないでしょうか。人から傷つけられるときでも、神が共にいてくださるという信仰、希望をわたしたちは捨ててはならないのです。

 11節です。13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。

 わたしは皆さんの前でお話をするとき、原稿を用意しないではいられません。皆さんの前にこうして立つことは、べつに、引き渡され連行されることではありませんが、何を言おうかと毎週思い煩います。聖霊が語らせてくれればよいのですが、わたしが礼拝で話すときは、原稿を用意していないと、聖霊は助けてくれないようです。

 では、何を言おうかと取り越し苦労をせず、その場で聖霊から教えられることを話すとはどういうことなのでしょうか。それは、やはり、神に委ねよ、ということだと思います。皆さんは、牧師のようには人前で話す機会は少ないと思いますが、そういうお話の内容よりも、人生の大きな問題、死であるとか、病気であるとか、仕事であるとか、家族であるとか、そういう大きな問題は、神に委ねるということではないでしょうか。

自分ではまったく何もしないということではなく、ある程度のことをしたら、いやこうではなくああすればよかったとか、うまくいかないのではないかとか取り越し苦労をするのではなく、そこからさきは、神に委ねるのです。あるドラマで聞いた、「病気のことはお医者さんに、いのちのことは神様に」という言葉が思い出されます。

 12節です。13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 わたしたちの人生においては、家族や親しかった人びととの間でも、予想もしなかったこと、まさかと思ったことが起こります。しかし、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる、神が共にいるから」とイエスは教えてくれます。

 わたしのこれまでの人生でも、いくつかのことが起こりました。わたしは最後まで耐え忍んだわけではありませんが、ふりかえってみたら、なんとかなってきました。

 最後まで耐え忍ぶというより、最後まで神は見捨てない、ということではないでしょうか。

 遠藤周作の「侍」という小説の最後の方で、主人公は捕まります。おそらくこれから拷問を受けて、死ぬことになるでしょう。しかし、連れて行かれるその背中に、主人公の友が語りかけます。「ここからさきは、あのお方が一緒におられます」「ここからさきは、あのお方が一緒におられます」

 神はかならずこうしてくださる、ああしてくださる、そのような信仰、希望は非常に大切です。けれども、そのようにならなかった場合でも、神は最後まで一緒にいてくださる、そのようにならなくても、神はわたしたちを最後まで見捨てない、そのような信仰、希望をもわたしたちは持ち続けようではありませんか。

 祈り:神さま、あなたは、わたしたちにいのちを与え、わたしたちが生きる世界を与えてくださいました。神さま、あなたは、また、今日まで、わたしたちの日毎の糧をあたえて、わたしたちを守り支えてくださいました。心より感謝申し上げます。神さま、それにもかかわらず、わたしたちはさまざまな恐れや不安を抱えていますが、あなたが最後までわたしたちとともにいらしてくださるという信仰と希望をもち続けることができますように。神さま、世界の片隅でひとり苦しむ友がいます。どうぞ、あなたが最後までともにいてささえてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。
 

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