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2021年11月7日 [今週の聖書の言葉]

 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。(出エジプト記3:15)

今から三千年以上前、旧約聖書によれば、イスラエルの人びとはエジプトで奴隷として苦しんでいました。しかし、神はモーセをリーダーに任じ、民を解放しようとします。
 その際に神は自分は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗ります。アブラハムらはモーセたちより数百年前の世代です。しかし、神は世代を超えて神である、というのです。
 アブラハムらの人生を導いた神は、その子孫であるモーセらイスラエルの民をも導くというのです。しかも、アブラハムの神は今でもアブラハムの神であり、それは、アブラハムは地上の旅を終えたあとも神とつながっていることを意味するのではないでしょうか。
 さらには、先祖が今も神とつながっていて子孫も今神とつながることによって、先祖と子孫も今もつながっているということではないでしょうか。
 先祖に限らずすでに地上の旅を終えたわたしたちの大切な人びとは、今も神とつながっています。神とつながっているという意味では、今も生きているのです。
まだ地上の旅を続けているわたしたちとも神はつながっています。そして、神を通して、わたしたちの大切な人びとはわたしたちとつながり続けているのです。

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死者は生きている [使信]

2021年11月7日 マルコ12:18-27  「死者は生きている」

おはようございます。わたしたちはこの地上の旅を終えたらどうなるのでしょうか。地上の旅を終えた人と地上の旅を続けている人とのつながり、永眠者と呼ばれる人びととわたしたちのつながりは、どうなっているのでしょうか。イエスはそれをどのように考えているのでしょうか。

今日の聖書の前半には少し込み入ったことが書いてあります。ある男の人が妻より先に天へと旅立ちました。残された妻はその弟と結婚しました。その弟も妻より先に天へと旅立ちました。残された妻は弟の弟と結婚しました。弟の弟も妻より先に天へと旅立ちました。そういうことが男兄弟七人について繰り返されました。さて、もし、死んだ人が復活するとしたら、そのとき、妻は誰の妻になるのでしょうか。長男ですか、次男ですか、それとも、末っ子の妻になるのでしょうか。

難しいですよね。答えが出ませんよね。答えが出ないのは、そもそも復活などないからです・・・というのが、サドカイ派と呼ばれる人々の主張だったようです。ようするに、屁理屈によって、復活を否定しようとしたわけです。複数回結婚した人は復活したら誰と夫婦になるのか。答えられないだろう。だから、復活などない、という理屈です。

それに対して、イエスはこう答えました。マルコによる福音書12章24節です。12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁(とつ)ぐこともなく、天使のようになるのだ。12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」とイエスは言います。サドカイ派は、復活を生きている時と同じような生活のこととし、そんなものはありえないと言っているが、そうではない、死んだ人が復活するということは、今と同じような肉体、生活空間、生活形式があるわけでなない、とイエスは言っているのではないでしょうか。

わたしたちは、復活の命を信じますが、それは今と同じような肉体、これと同じような物質空間、今と同じような目に見える世界がある、ということではないでしょう。現に、わたしたちは永眠者と呼ばれる人びととのつながりを今も大切にしていますが、永眠者が目に見える姿でここにいて、口を開けてご飯を食べて、というようなことではありません。わたしたちと永眠者とのつながりは、地上の旅をしていたときとは、少し違う形になっているのではないでしょうか。

では、イエスは、それをどのようなものだと言っているのでしょうか。ここでイエスは神の言葉を引き合いに出しています。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』。これは、イエスより1300年くらい前に、神がモーセに言った言葉です。そして、この神の言葉に、イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という原理を当てはめています。

神は生きている者の神である、そうであれば、神は誰々の神であるならば、その誰々は生きていることになる、なぜならば、神は生きている者の神なのだから、というのです。神は生きている者の神である、そうであれば、神が「わたしはアブラハムの神」と言うことは、アブラハムは生きているのだ、というのです。

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」とイエスは言います。「神は死んだ者の神ではない」と言っていますが、これは、神は、永眠者の神ではない、という意味ではありません。むしろ、神は永眠者の神である、そして、神は生きている者の神なのだから、永眠者は生きている、とイエスは言っているのではないでしょうか。

言い変えますと、誰かが地上の旅を終えた後も、神はその人の神であり続ける、ということでしょう。アブラハムはモーセよりも500年前の人、今からですと、4千年くらい前の人ということになりますが、4千年近く前にアブラハムは地上の旅を終えたけれども、地上の旅をしていた時も、そして、その旅を終えた後も、神はアブラハムの神でいつづける、その意味で、死んだ人は生きている、ということではないでしょうか。

わたしの父と母は10年ほど前に地上の旅を終えましたが、神はあいかわらず、わたしの母と父の神でいつづけてくださる、とわたしは信じています。そして、神は、わたしの神でもあります。神は地上の旅を終えた父と母の神であり、地上の旅を続けているわたしの神でもある、その意味で、わたしは母や父とつながっているのです。死者とわたしたちとのつながりは、このように神を通してのつながりではないでしょうか。

死人に口なしと言いますが、死者には口があります。いや、死者には言葉があります。死人ではなく死者というとき、それは、わたしたちのつながりを意味しているように思います。ちなみに、永眠者とは、永久に眠り続けてけっして起きない人のことではないと思います。永く眠っているようには見えますが、じつは、わたしたちとつながり、言葉を交換する人のことではないでしょうか。

わたしの父は、生前、よく、「NHKの朝ドラはこの島国で生活する人びとの標準だ」と言っていました。わたしは、おしん以来30年朝ドラをかかさず観ています。父の言葉は生きています。

父は、また、よく「キリストは括弧の前のマイナスだ」と言っていました。中学生の時、マイナス100を括弧の中に入れて、前にもうひとつマイナスをつけるとプラス100になると習いました。マイナスマイナスはプラスになると教わりました。わたしはマイナス無限大のような人間ですが、神はその前にもうひとつマイナスをつけて、わたしをプラスと見てくださる、いや、わたしをマイナスと見ないでくださる、その神のまなざしに救われます。「キリストは括弧の前のマイナスだ」、わたしの中で、父のこの言葉は、いまも生きています。

母の言葉は、とくには、覚えていません。しかし、中学の時、早弁がしたくて、昼休みに売店でパンを買うのではなく弁当を持っていきたい、たとえば友達のようにチャーハンを弁当箱に詰めてほしいとわたしが言うと、翌日からそうしてくれました。それは、言葉のようには思えませんが、じつは、あたたかな言葉なのではないでしょうか。そして、その言葉は、わたしの中で、まだあたたかい言葉なのです。

永眠者の生前の言葉や行動は、じつは、現在のわたしたちへの現在の永眠者の現在の語りかけでもあります。

わたしは、最近、遠藤周作さんの「女の一生、キクの場合」という、幕末から明治初期のキリシタン迫害を描いた小説を読みました。遠藤周作と言えば「沈黙」という小説で、踏み絵のキリストが踏んでも良い、と呼びかける場面、信仰なき者、信仰弱き者の救いが印象的ですが、「女の一生、キクの場合」では、キリシタンと呼ばれた人びとの信仰の強さ、神への委ねの強さ、そして、キクというキリシタンではないけれども自分のいのちと交換に愛する人を守ろうとする愛の強さに胸を打たれました。遠藤周作さんは、25年前になくなっていますが、彼の言葉は多くの人びとの心に生きていることでしょう。

イエスは今から二千年前に地上の旅を終えましたが、今でも、いや、今、わたしたちに問いかけています。荒井献さんに「問いかけるイエス」という著書がありますが、イエスは二千年前のガリラヤの人びとでだけでなく、今のわたしたちにも問いかけているのです。

新約聖書のことを英語でNew Testament、と言います。Newは新しい、Testamentとは、契約という意味ですが、Testamentには遺言という意味もあります。

遺言とは、死者が生きている人々に今語り掛ける言葉です。

 神は永眠者の神であり続けます。その意味で、永眠者は生き続けています。神はわたしたちの神です。その意味で、わたしたちは神を通して永眠者とつながり続けています。

このつながりにおいて、永眠者はわたしたちに語りかけ続け、そして、わたしたちも永眠者に返答し、語りかけつづけるのです。

祈り:神さま、あなたは生ける者の神です。わたしたちが地上の旅を終えてもなお、あなたはわたしたちの神でいつづけてくださいます。そうやって、わたしたちは、生き続けることが許されています。あなたの深い恩寵に心より感謝申し上げます。神さま、大切な人びとを天に送り、悲しみを抱えている人びとがいます。どうぞ、その大切な人びととあなたがともにいらしてくださることを、あらためてお示しくださり、地上に生きる人びとに慰めと希望をお与えください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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