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心の中 [使信]

2021年10月31日 マルコ7:14-23 「心の中」

おはようございます。今日の使信の題を、最初は「腹の中」としていました。今日の聖書の個所ではイエスは人間の「悪い思い」を問題にしていますが、わたしは、これを自分の腹のどす黒さとすぐに結びつけてしまったのです。

ところが、よく読んでみますと、イエスは、どす黒いのは人間のお腹の中ではなく心の中だと言っています。だから、今日の使信の題を「腹の中」から「心の中」へと変えました。もっとも、日本語で「腹黒い」というと胃や腸のことではなく、心が邪まであることを指しますから、イエスが「心の中」と言い表したことは、日本語で「腹の中」と言い表すものと同じことを指しているのでしょう。ぎゃくに、今日の聖書で「腹」と言っているものは、単純に胃や腸を指しているのでしょう。

イカ墨を食べると、たしかに、胃や腸が黒くなりそうですが、心は黒くなりません。はんたいに、イカ墨を食べなくても、心が邪まになってしまうことはあるでしょう。

今日の聖書を振り返ってみましょう。マルコによる福音書7章15節です。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」

旧約聖書には、こういうものは汚らわしいから食べてはならない、とされているものがあります。たとえば、ラクダです。そして、野ウサギです。日本では「うさぎ追いし」と歌いますが、旧約聖書では、野ウサギを追いかけるくらいはよいかもしれませんが、食べてはいけないとされています。それから、岩狸もダメです。

はげわし、カラス、みみずく、そして、爬虫類もダメです。しかし、イナゴは食べてよいそうです。若いころ、知り合いから、田舎でいなごをとってきました、と言って、弁当箱一杯のいなごの佃煮をいただいたことがあります。わたしはおいしくいただきましたが、家族は箸を伸ばしませんでした。

それから、ひれやうろこのない魚類もだめです。ひれやうろこのない魚類には、イカ、タコ、エビ、カニ、うなぎなどが含まれるそうです。そうすると、お寿司屋さんのメニューがかなり減ってしまうのではないでしょうか。

イエスの生きた社会は、このようなものを食べると汚れる、と言うのです。しかし、イエスは、そうではない、と言いました。18節です。7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」。つまり、汚れているとされるものを食べたからと言って、人は汚れたりはしない、というのです。そして、そんなふうに言われている食べ物でも、食べたら、お腹の中に入り、つまり、心ではなくて、胃や腸の中に入り、やがて排泄される、だから、そんなものを食べても心が汚されることはない、口から食べて、胃や腸で消化されて、排泄されれば、汚れていると言われる食べ物は、むしろ、清められてしまうのではないか、とイエスは言っています。イエスはユーモアを混ぜながら、まことのことを言っているのではないでしょうか。

汚れているとされる食べ物はべつに汚れていない、とイエスは言い、さらに、汚れているのは、むしろ、人の心ではないか、と問いかけます。20節です。

7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

らくだや野ウサギやイカやタコが汚れているのではない、これらが人を汚すのではない、むしろ、人の心の中から出てくる悪い思いが人を汚すのだ、とイエスは言います。

心には、良い部分と悪い部分があるのではないでしょうか。心には、悪魔と天使の両方が住んでいるのではないでしょうか。よく、犯罪の容疑者の近所の人が「あの人はそんなことをする人に思えない」などと言いますが、人には二面性があるのではないでしょうか。

あるお芝居にこんなセリフがありました。「人は、自分の欲望、情欲をひたすら満たそうとしたと思えば、次の日、小さな子どもを救うために自分の体を迫りくる馬車の前に放り出す」。

イエスは人間の心から「悪い思い」が出てくると言います。そして、具体例として、「みだらな行い、盗み、殺意、7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」が挙げられています。さらに、これらの悪は皆、人の心の中から出てきて、人を汚す、口から入る食べ物が人を汚すのではない、と言います。

どうしたらよいのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙にも今日の聖書の個所と似たようなパウロの言葉があります。わたしも、これまでも、何度か引用してきました。

5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

今日のイエスの言葉と似ているように思われます。しかし、パウロはさらに続けます。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしの心には、肉の業とパウロが言うような邪なものがありますが、わたしたちの心には、パウロが「霊の結ぶ実」と呼ぶ美しいものもあるのではないでしょうか。心の中の邪なものは、わたし自身から出ていますが、心の中の美しいものは、神から来ているのではないでしょうか。しかし、残念ながら、わたしの心の中では、わたしの邪まさが、神からの美しさにまさってしまうのです。

パウロが挙げた肉の業のひとつに「利己心」がありました。自分のことだけを考え、相手や他の人のことを考えないこと、つまり、エゴイズムのことだと思います。たとえば、夏目漱石の「こころ」という小説の中で、主人公は下宿先のお嬢さんが好きになります。ところが主人公の友人もお嬢さんを好きになります。その気持ちを打ち明けられて、主人公は友人の想いを大事にするどころか、自分がお嬢さんと結婚しようと、友人を出し抜いて、お嬢さんの母親にお嬢さんと結婚させて下さい、と言うのです。

 わたしもそうなってしまいます。相手やまわりより、自分の思いを優先させてしまいます。二十代のころに、それではいけない、と気づかされましたが、いまだ克服できず、自分の感情や家族の生活が頭の中では第一になってしまいます。

 しかし、還暦を迎え、今日この後か、30年後かはわかりませんが、やがて人生を終える身としては、このままで良いのか、いや、霊の結ぶ実のような生き方に近づきたい、と思います。目標というより憧れです。

自分の中で、肉の業、肉の想い、利己心が強まるとき、なんとか、霊の実の業、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和を想い起し、それに従いたい、それに委ねたいと思います。

 自分の心の中の汚れたもの、自分の心の中の肉の業に、わたしは気づきたいと思います。それらがあることを認めたいと思います。そして、つぎは、霊に委ねたい、神の愛、神の愛の力に委ねたいと思います。

創世記には、人は神に似せて創られた、神にかたどって創られた、とあります。そうであれば、わたしたちの心の中には、邪まなものだけでなく、霊の結ぶ実、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、抑制心もあるのではないでしょうか。

ふたたびパウロを引きますと、ローマの信徒への手紙にはこうあります。8:5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

肉ではなく霊に従って歩みたい、神に従って歩みたいと思います。肉ではなく霊に属したい、神に属したいと思います。

WWJDという言葉を聞いたことがあります。これは、What Would Jesus Do? の省略です。「イエスだったらどうするだろうか」、ということです。わたしたちの中で、心の中の汚れた思い、肉の業が強いとき、ひといきついて、イエスだったらどうするだろうか、と、想いをイエスに向けることができたら、人生はよりゆたかなものになるのではないでしょうか。

祈り:神さま、あなたは、わたしたちの中に、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、抑制といった果実を結ぼうとしてくださいます。心より感謝申し上げます。神さま、あなたのこのお心に従って歩ませてください。神さま、自分にではなく、あなたに属させてください。神さま、人の邪な思いが、いろいろな姿をとり、ときには、権力者の暴力となり、ときには、市民の無慈悲となり、人びとを傷つけています。平和、善意、誠実、正義、愛というあなたのお心がそれに勝りますように。わたしたちをあなたの平和の器にしてください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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