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神を予感する [使信]

2021年10月17日 マタイ25:1-13 「神を予感する」

おはようございます。今日の聖書にわたしはこんなメッセージを感じました。あなたはこの世界で神に気づいていますか。あなたはこの世界のさまざまなことの中に神を予感していますか。

今日の聖書を振り返ってみましょう。おとめたちが花婿の到着を待っています。しかし、皆眠気がさして眠り込んでしまいます。わたしたちは大丈夫でしょうか。わたしたちは起きているでしょうか。学校で授業をしていますと、授業中に寝る生徒がいます。とくに、水泳の授業の次の授業や、昼ご飯を食べた後の五時間目、六時間目の授業ではよく寝ます。

おとめたちが眠り込んでいるうちに花婿が到着します。「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がします。わたしたちには、この声が聞こえているでしょうか。「神さまが来られました。お迎えしましょう」「神さまがここにおられます。神さまに気づきましょう」という声が聞こえているでしょうか。音にならないこの声が聞こえているでしょうか。

おとめたちは目を覚ましますが、そのうち、半分は、ともし火の油を切らしていました。油の用意をしていなかったということは、あかりの用意をしっかりしていなかったということであり、神が来たこと、神がここにいることに気づく用意がないということではないでしょうか。

わたしたちは、神をわたしたちの心に受け入れる用意があるでしょうか。自分のことばかり考えていないでしょうか。目の前の人に気づき、目の前の人の声を聞く用意があるでしょうか。神のメッセージを受け入れる用意があるでしょうか。

このおとめのたとえ話の言葉を用いて言うならば、わたしたちは、神に対して、ひとつは、寝ないでいる必要があり、それから、神の到着をお迎えする必要があり、そして、ともし火の油を切らさないようにする必要があります。

そして、これをひとことにまとめるならば、13節の言葉のようになるでしょう。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。

「目を覚ましていなさい」 この言葉は、たとえば、小学校の放課後の掃除で、当番の生徒たちは、いつ先生が見に来るかびくびくしながら、いつ先生が来ても良いように、まじめに掃除をする、といったニュアンスにとらえられることもあるでしょう。いつ神さまが来てもよいように、いつもよいことをしていなさい、と。

しかし、意味をもう少し広げて、この「目を覚ましていなさい」という言葉を、今日は、神に気づきなさい、神を予感しなさい、という意味で考えてみたいと思います。

キリスト教会が、まぶね教会が、ここで伝えるべきことは何でしょうか。わたしたち人間が知っておくべきことは何でしょうか。

旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書物があります。以前は「伝道の書」と呼ばれていました。そこにこういう言葉があります。12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

ここでは、高齢期を「苦しみの日々」と言っているようです。高齢になると「年を重ねることに喜びはない」などと言うようになると。けれども、そんなことはないのではないでしょうか。わたしがもっとも尊敬する牧師先生・・・もう93歳でいらっしゃいますが、この先生が七十代のころ、わたしの前任地でお話をしていただいたことがありますが、そのとき先生は、「ご高齢の皆さん、人生はこれからですよ。いよいよ神さまの国に入ろうとしているのですから」とおっしゃっておられました。たしかに、これからだと思います。これからが人生のもっとも大事な時期に入ります。

 さて、青春の日々でも前期高齢の日々でも後期高齢の日々でもよいのですが、おまえの創造主に心を留める、わたしたちの創造主に心を留める、わたしたちと世界を創造してくださったお方に心を留めることは、ひじょうに大切でありましょう。

創造主、わたしたちにいのちをくれたお方、わたしたちが生きるこの世界を創造してくださったお方、今わたしたちを生かしてくださるお方、インマヌエルのお方、アガペーのお方に心を留める、このお方に対して目を覚ましている、世界のさまざまなことの中に、このお方を予感することこそ、まぶね教会が伝えるべきことであり、わたしたちが知るべきこと、心に刻み込むべきことではないでしょうか。

創造主を知ると、神を知るとどうなるのでしょうか。人生の土台ができます。喜びにしろ悲しみにしろ人生のあじわいがゆたかになります。ちっぽけな自分の気分だけにとらわれず、大きな視点を持てます。こころの表面の嵐はあいかわらず繰り返されるかも知れませんが、こころの海の深いところには、自分でも気づかないほど静かな凪が起こります。

わたしたちはどうやって創造主を知るのでしょうか。それは、旧約聖書であり新約聖書であり、そこに書かれているイスラエルの民の歩み、神との歩みであり、イエスであり、パウロであり、聖書をわたしたちに残してくれた多くの人びとの信仰を通してでありましょう。

あるいは、大きな空、青い空、大きな雲、白い雲、緑の山、木々のそびえたつ森、色とりどりの花、黒くあたたかい土、枝を揺らす風、きらめく星、太陽の熱、日の光、月の光など、神が創造した自然、被造物を通して、わたしたちは、創造主を知るでしょう。予感するでしょう。

あるいは、音楽を通して、わたしたちは神を感じるでしょう。バッハは、たましいのエバンジェリスト、つまり、たましいで福音を伝える者と呼ばれています。あるいは、絵画を通して、わたしたちは神の何かを感じるでしょう。そこのロビーにも、有名な画家が聖書を題材に書いた画集がおいてあります。

あるいは、わたしたちは、人のぬくもり、あたたかな人の愛を通して、神を感じます。たんに気が合うのではなくて、たましいの片鱗にほんの少し触れあうようなとき、わたしたちは神を予感します。

あるいは、人の死を通して、わたしたちは神を感じます。人の死は、じつは、人のいのちでもあるからです。そして、人のいのちは、神の働きだからです。

イエスが十字架で息を引き取ったとき、ローマ兵は、「この人は神の子だった」と言いました。ローマ兵は、十字架で死んでいったイエスの中に、神を予感したのです。この人は死んでしまったが、この人が生きて、精いっぱい生きて死んでいく、その小さな弱い姿の中に、ローマ兵は、神のいのちの輝きを見たのです。このいのちに、弱い中に、小さい中に働く神のいのちに、彼は目を覚ましていたのです。

良いことがなければ、神など感じられないように、わたしたちは思ってしまいます。しかし、自分にとって良いことがない時でも、世界には美しいことはあります。わたしたちは美しいことに神を予感します。新緑にも神を感じますが、落ち葉にも神を感じます。神を感じ続けることができるように、わたしたちは、神の創造したこの世界の森羅万象において、目を覚ましていようではありませんか。

祈り:神さま、あなたはわたしたちにいのちを与え、そのいのちに世界という場所を備えてくださいました。心より感謝いたします。神さま、わたしたちが自分のいのちに、友のいのちに、小さないのちに、そして、世界の出来事に、あなたを見いだすことができますように、わたしたちの目を覚まさせてください。神さま、あなたがいない、あなたがともにいない、と苦しんでいる友がいます。神さま、どうぞ、あなたがその友とともにいらしてください。そのしるしを友にお示しください。イエス、わたしたちのキリストによって祈ります。

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